「大高城」の版間の差分

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しかし信秀の死後、息子の[[織田信長]]から離反した[[鳴海城]]主[[山口教継]]の調略で、大高城は[[沓掛城]]とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「[[丸根砦]]」「[[鷲津砦]]」を築き、[[大高城]]に圧力を加える。[[永禄]]2年([[1559年]])、[[朝比奈輝勝]]が義元の命をうけ大高城の守りに入る。
 
翌永禄3年([[1560年]])には、大高城の包囲を破りそのまま[[鵜殿長照]]が守備についた。5月18日夜には、大高城に[[松平元]]が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死(桶狭間の戦い)を確認した元康は[[岡崎城]]に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。(ただしもっと早く、永禄元年に元康の「兵糧入れ」が行われたと記す史書もある。また、永禄二年とする史書もある。その史書の記述が間違いである可能性もあるが、大高城が今川方に落ちた直後にも元康が兵糧入れを行ったのではないか、と考える研究者もいる。)
 
まもなく廃城となったが、[[尾張藩]][[家老]]の志水家が、[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])にここに館を設けてから代々住むようになった。この館も明治3年([[1870年]])に売却された。