「カチューシャの唄」の版間の差分

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作詞は島村と相馬の名義である。1番は島村が作詞し、2番以降は相馬が作詞したものであるが、当初は島村が手掛けていたのにもかかわらず、うまくいかなかったので相馬がまとめる形になったと、後に[[藤浦洸]]は芸術座の俳優であった[[笹本甲午]]から聞いている<ref name="a">『なつめろの人々』 16頁。</ref>。
 
一方、中山はこの作品が作曲者として初めて世に出した作品であった。島村は書生として寄宿していた中山に「学校の唱歌ともならず、西洋の賛美歌ともならず、日本の俗謡とリードの中間のような旋律を考えて欲しい」<ref name="b">『カチューシャの唄、永遠に』 64頁。</ref>「誰にでも親しめるもの、日本中がみんなうたえるようなものを作れ」<ref>『カチューシャの唄、永遠に』 182頁。</ref>と依頼した。しかし、中山はそのようなメロディが思い浮かばずに悩んだ中山であったが、1ヶ月ほど経った頃に詞の合間に「ララ」と合いの手を織り交ぜるアイディアが浮かび、島村の許可を得た上で若干の変更を加えた末に完成させた<ref name="b"/>。
 
『復活』の上演では、第1幕で松井と[[横川唯治]]が歌い、第4幕で松井と[[宮部静子]]が歌うため、主に歌ったのは松井である。松井は首を少し傾げて両手で手拍子を取りながら情感を込めて歌っていたが、当時、広島で実際に公演を見た藤浦は後にレコードを聞いて「女学校の唱歌のよう」<ref name="a" />であったと評している。
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== 大流行の背景 ==
=== 好評を博した「復活」上演 ===
不倫関係が表面化したことで、[[文芸協会]]を脱退し芸術座を結成した島村と松井であったが、「わがままでヒステリック」と評されたこともある看板女優の松井の言動がもとで、芸術座は『復活』の公演の前にたびたび分裂騒動を起こしていた。『復活』の公演は1914年の3月に[[帝国劇場]]で始まったが、興行成績は芳しくなかった。興行成績次第では一座を解散するとも噂されていたが、4月以降に大阪や京都での公演には、観客が連日大挙し、人気を博した。
 
その後に行われた[[長野県|長野]]や[[富山県|富山]]や[[金沢市|金沢]]や[[広島県|広島]]、[[横浜市|横浜]]や東京の[[歌舞伎座]]・[[東京座]]などでの公演も成功を収め、4年間で上演回数は440回を越えたが、この背景には、当時世界中で注目を集めていた[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の思想を目にしようという目的の学生<ref>『「はやり歌」の考古学』146頁。</ref>や、新しく変わった大正時代を肌で感じようとした大衆の心理があった<ref>『日本レコード文化史』95頁。</ref>。
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この盛況の様子を見た[[オリエント・レコード]]は、松井の歌と劇の一部を吹き込んでレコードにした。[[蓄音機]]自体が高価で普及率が低く、数千枚売れれば大当たりと言われた当時でも2万枚以上を売り上げたという説もある。なお、[[大阪毎日新聞]]が1915年3月13日付で報じたところでは、発売後10ヶ月間の売れ行きは2000枚であったという。
 
当時は吹き込みによって契約料が支払われる制度がなかったため、松井は報酬として自分の歌ったレコードをもらったのみであったが、芸術座は完成したレコードをさらなるヒットに生かした。島村各公演先で初日の前に文学講演会を行い、自らの演劇論を主張する一方でレコードを流し、観客の心を掴んだ。
 
さらに、この楽曲の大流行を目にした島村が、芸術座の舞台において劇中歌の挿入を決めたことにより、後に公演する[[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]原作の舞台『その前夜』の挿入歌として、「[[ゴンドラの唄]]」を製作するに至った。
 
== 大衆への影響 ==
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*[[斉藤武雄]]著『カチューシャの唄、永遠に』 [[郷土出版社]]、1996年。ISBN 4876633320
*『週刊YEAR BOOK 日録20世紀 大正3年』 [[講談社]]、1998年。
*『週刊YEAR BOOK 日録20世紀 大正4年』 [[講談社]]、1998年。
*[[倉田善弘]]著 『「はやり歌」の考古学』 [[文藝春秋]]、2001年。ISBN 4166601717
*[[倉田善弘]]著 『日本レコード文化史』 [[岩波書店]]、2006年。ISBN 4006031424