「ロマン・ムスティスラーヴィチ」の版間の差分
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[[Image:NevrevN_RGalickiyPrinimMIN.jpg|thumb|right|300px|ロマンがローマ法王の使節を応接する場面。]]
'''ロマン・ムスティスラーヴィチ''' ([[古ルーシ語]]:'''{{lang|sla|Романъ Мьстиславичь}}'''、[[ウクライナ語]]:'''{{lang|uk|Роман Мстиславич}}'''、意味:[[ムスチスラフ2世|ムスチスラフ]]の子ロマン、1150年頃?-[[1205年]][[6月19日]])は[[リューリク朝]]の[[公]]の一人である。[[ノヴゴロド]]の公(在位、[[1168年]]-[[1770年]])、[[ヴォルィーニ公国]]の公(在位、[[1170年]]-[[1205年]])、[[ハールィチ公国]]の公(在位、[[1199年]]-[[1205年]])、[[キエフ大公国]]の[[大公]]([[1204年]]-[[1205年]])であった。[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]の創公とその公国を治めていたロマノヴィチ家の祖とされる。[[12世紀]]末-[[13世紀]]初頭に[[ルーシ]]の公たちの中で最も有力な公とみなされ、当時は「偉大なるロマン大公」、「全ルーシの統治者」と呼ばれた。息子にはハールィチの雄[[ダヌィー
== 概要 ==
ロマンはキエフ大公の[[ムスチスラフ2世]]と[[ポーランド王国|ポーランド]]の王[[ボレスワフ3世 (ポーランド王)|ボレスワフ3世歪口王]]の娘、[[アグニェシュカ・ボレスワヴヴナ|アグネーサ(アグ
ロマンは、公威にもとづく強い中央政権国家を目指していたため、現地の[[貴族]]の権利を縮め、自らの政権に異を唱える者を無情に成敗していたといわれている。一方、平民の間での人気を高めるために、ルーシ南部を苦しめた[[クマン人]]による来襲を止めた。[[1201年]]-[[1202年]]の役と[[1203年]]-[[1204年]]の役ではクマン人の長たちを破り、従属させ、夥しいルーシ人の捕虜を解放させた。
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{{先代次代|[[キエフ大公国#歴代大公|キエフ大公]]|[[1204年]] - [[1205年]]|[[リューリク2世]]|[[リューリク2世]]}}
{{先代次代|[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国#歴代大公|ハールィチ・ヴォルィーニ大公]]<br>[[画像:Alex K Halych-Volynia.svg|34px]]|[[1199年]] - [[1205年]]|-|[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダヌィー
{{DEFAULTSORT:ろまんむすていすらういち}}
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