「アドリアン・ヴィラールト」の版間の差分

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ヴィラールトはルネサンス時代の最も器用な作曲家の一人であり、ほとんどすべての既存の音楽様式や楽式によって作曲している。人間的な力量によって、また「聖マルコ寺院楽長」という中核的な地位によって、ヴィラールトはジョスカンの死から[[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ|パレストリーナ]]の時代の到来までの間、ヨーロッパ中で最も影響力のある音楽家となった。
 
ヴィラールトは、後にヴェネツィア楽派の分割合唱様式が発展を遂げる上でいしずえとなるような[[アンティフォナ|交唱]]様式を開発したと信じられている。聖マルコ寺院の本祭壇の両側には、2つの聖歌隊席があり、それぞれにオルガンが1台備え付けてある。ヴィラールトは合唱団を二つの部分に分け、それらを交互に、あるいは同時に利用している。そして[[詩篇]]などの宗教曲を、2つの交代しあう合唱のために作曲し、演奏した。このような新機軸はたちまち成功をおさめ、新たな方法論の発展に強い影響を及ぼしたのである。[[1550年]]にヴィラールトは《分割合唱のための詩篇集 ''Salmi spezzati'' 》を出版した。これがヴェネツィア楽派の最初の[[コーリ・スペッツァーティ]]様式による作品である。ヴィラールトはこのような交唱様式ないしは複合唱の方法を最初に用いた作曲家というわけではなかったにもかかわらず、それを有名にした最初の人物であるとは言えるだろう。
 
ヴィラールトは作曲家としてだけでなく、教育者としても傑出していた。門弟には、[[チプリアーノ・デ・ローレ]]や、聖マルコ寺院の後任楽長[[コスタンツォ・ポルタ]]、フランチェスコ・ダッラ・ヴィオラ、ジョゼッフォ・ツァルリーノ、[[アンドレーア・ガブリエーリ]]とその甥[[ジョヴァンニ・ガブリエーリ|ジョヴァンニ]]がいる。彼らが来たるべき[[ヴェネツィア楽派]]の核となった世代であり、[[バロック音楽]]開始の時代を告げる、音楽様式の変化の時期に決定的な痕跡を残すことになったのである。ヴィラールトは非常に多数の作品を遺した。8曲の[[ミサ曲]]、50曲以上の[[詩篇|詩篇唱]]、150曲以上の[[モテット]]、およそ60曲のフランス語の[[シャンソン]]、70曲以上のイタリア語の[[マドリガーレ]]、そして若干の器楽曲[[リチェルカーレ]]である。