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'''アルトマルク号事件'''(アルトマルクごうじけん、英:Altmark Incident、ノルウェー:Altmark-affæren、独:Altmark-Zwischenfall)は、[[第二次世界大戦]]中の[[1940年]][[2月16日]]、当時[[中立]]だった[[ノルウェー]]の[[領海]]を舞台に[[イギリス]]と[[ナチス・ドイツ]]の間で発生した軍事衝突。[[イギリス海軍]]によって行われた大掛かりな乗り込み戦の最後のものである<ref>[http://www.bbc.co.uk/ww2peopleswar/stories/53/a1979553.shtml]BBC Home. The Last Boarding Action of the Royal Navyby WatTyler</ref>。
 
==経緯==
1940年2月に、ドイツの補給船[[タンカー]][[アルトマルク (船)|アルトマルク]]は、299名の捕虜と共にドイツに戻りつつあった<ref>[http://books.google.com/books?id=R24HwO0XWeMC&pg=PA215&lpg=PA215&dq=hell-ship+altmark&source=web&ots=leiW3qFFey&sig=9pK5UBXGHyRxpljaP2whTYRy5Do&hl=en&sa=X&oi=book_result&resnum=7&ct=result "The Rule of Law in International Affairs" (Brian Simpson 2003), page 215]</ref>。船上の捕虜は、[[ポケット戦艦]][[アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)|アドミラル・グラーフ・シュペー]]によって沈められた商船から収容されたイギリスの船員だった。南[[大西洋]]からドイツに帰る途中、アルトマルクはノルウェーの領海を通過した。ノルウェー官憲による調査は[[2月15日]]に3回にわたって行われた。ノルウェーの士官は船に乗り込んでおおまかな捜索を行い、ドイツの乗員は同船が全く商業的な目的で運行していると約束した。最初の調査は[[水雷艇]]TryggによってLinesøy島沖で行われ、次に[[ソグネフィヨルド]]で水雷艇Snøggにより、そして最後はHjeltefjordにおいて[[カルステン・タンク=ニールセン]]提督と駆逐艦Garmによって非公式に行われた。3回目の調査の後、アルトマルクは魚雷艇SkarvとKjell、および巡視艇Firernの護衛によって南方へ誘導された。伝えられるところでは、イギリスの捕虜は船倉に閉じ込められていたが、大声で叫んだり船の側壁を叩いたり、懸命に合図を送ろうとしたので、ドイツの乗組員はウインチを動かすことなどによってその音をかき消さなければならなかったという。しかしノルウェーの捜索隊は船倉まで調べに入ることはなく、船はそのまま通行を許された。
 
ノルウェーの士官は船に乗り込んでおおまかな捜索を行い、ドイツの乗員は同船が全く商業的な目的で運行していると約束した。最初の調査は[[水雷艇]]TryggによってLinesøy島沖で行われ、次に[[ソグネフィヨルド]]で水雷艇Snøggにより、そして最後はHjeltefjordにおいて[[カルステン・タンク=ニールセン]][[提督]]と[[駆逐艦]]Garmによって非公式に行われた。3回目の調査の後、アルトマルクは魚雷艇SkarvとKjell、および巡視艇Firernの護衛によって南方へ誘導された。伝えられるところでは、イギリスの捕虜は船倉に閉じ込められていたが、大声で叫んだり船の側壁を叩いたり、懸命に合図を送ろうとしたので、ドイツの乗組員はウインチを動かすことなどによってその音をかき消さなければならなかったという。しかしノルウェーの捜索隊は船倉まで調べに入ることはなく、船はそのまま通行を許された。
アルトマルクは同じ日、エーゲルスンで[[イギリス空軍]]機に発見され、直ちに海軍に通報された。駆逐艦[[コサック (駆逐艦)|コサック]]([[フィリップ・ヴァイアン]]艦長)によって阻止されそうになったアルトマルクは、[[イェッシングフィヨルド]]([[:en:Jøssingfjord|Jøssingfjord]])に避難した。しかしコサックはその翌日にその後を追い、接岸を強要した。イギリス側は2月16日22時20分にアルトマルクに乗り込み、[[銃剣]]による[[白兵戦]]の末、乗組員を圧倒して捕虜を解放した。コサックは、2月17日の真夜中過ぎにイェッシングフィヨルドを退去した。ノルウェーの護衛艦は抗議したが、介入はしなかった。ノルウェー政府によって後に出された公式見解は、国際条約によれば、中立国は圧倒的に優勢な力に対する抵抗の義務は負っていないというものだった。
 
アルトマルクは同じ日、エーゲルスンで[[イギリス空軍]]機に発見され、直ちに海軍に通報された。駆逐艦[[コサック (駆逐艦)|コサック]]([[フィリップ・ヴァイアン]]艦長)によって阻止されそうになったアルトマルクは、[[イェッシングフィヨルド]]([[:en:Jøssingfjord|Jøssingfjord]])に避難した。しかしコサックはその翌日にその後を追い、接岸を強要した。イギリス側は2月16日22時20分にアルトマルクに乗り込み、[[銃剣]]による[[白兵戦]]の末、乗組員を圧倒して捕虜を解放した。コサックは、2月17日の真夜中過ぎにイェッシングフィヨルドを退去した。ノルウェーの護衛艦は抗議したが、介入はしなかった。ノルウェー政府によって後に出された公式見解は、国際条約によれば、中立国は圧倒的に優勢な力に対する抵抗の義務は負っていないというものだった。
 
ノルウェーの護衛艦は抗議したが、介入はしなかった。ノルウェー政府によって後に出された公式見解は、[[国際条約]]によれば、[[中立国]]は圧倒的に優勢な力に対する抵抗の義務は負っていないというものだった。
 
==その後==
ノルウェー人は[[中立]]の侵害に対して憤ったが、ヨーロッパの戦争に巻き込まれることも望んでいなかった。しかしアルトマルク号事件は、連合国にもドイツにも同様に、ノルウェーの中立に対する懸念を植え付けるものだった。両側ともノルウェーに対して軍事力を行使する非常時計画があった。その主たる目的は、戦争初期にドイツ[[軍需産業]]が依存していた[[スウェーデン]]の[[鉄鉱石]]の輸送路の支配であった。

アルトマルク号事件によって、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]][[連合国]]がノルウェーの中立を尊重しないことを確信した。[[2月19日]]、ヒトラーは[[デンマーク]]とノルウェーの占領を目的とする[[北欧侵攻|ヴェーザー演習作戦]]の推進を決定した。作戦は1940年[[4月9日]]に実施された。
 
アルトマルク事件は、「[[まやかし戦争]]」の期間、つかの間であるが、イギリスにとって切実に必要とされていた士気高揚の効果をもたらした。またドイツに占領されたノルウェーに対して、戦争期間を通じて長続きする宣伝効果を持った。
 
アルトマルク事件は、「[[まやかし戦争]]」の期間、つかの間であるが、イギリスにとって切実に必要とされていた士気高揚の効果をもたらした。またドイツに占領されたノルウェーに対して、戦争期間を通じて長続きする宣伝効果を持った。ノルウェー対独協力政府は、彼らの蔑称である「[[ヴィドクン・クヴィスリング|クヴィスリング]]」を打ち消すために、この衝突のあった場所イェッシングフィヨルドから、親連合国・反ナチスの者を指す「イェッシング」という蔑称を造り出したが、この言葉は一般大衆によって直ちに好意的な言葉として使われ始め、もくろみは逆効果となった。そのため[[1943年]]には公けの場での使用が禁止された。
 
==参考文献==