「石山寺」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Nlkl (会話 | 投稿記録)
文学作品を分けて和泉式部日記を追加
Nlkl (会話 | 投稿記録)
37行目:
『枕草子』(一九四段)には「寺は[[南法華寺|壺坂]]。[[笠置寺|笠置]]。[[法輪寺 (京都市西京区)|法輪]]。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。'''石山'''。[[粉河寺|粉河]]。[[崇福寺跡|志賀]]」とあり、[[藤原道綱母]]の『蜻蛉日記』では[[天禄]]元年(970年)7月の記事に登場する。『更級日記』の筆者・[[菅原孝標女]](すがわらたかすえのむすめ)も[[長保]]3年(1001年)、石山寺に参篭している。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、[[寛弘]]元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。
『[[和泉式部日記]]』(十五段)では、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、
[[和泉式部]]が[[敦道親王]]との関係が上手くいかず、むなしい気持を慰めるために寺に籠った様子が描かれている。
 
== 伽藍 ==