「協調会」の版間の差分

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== 概要 ==
=== 発足の経緯 ===
[[原内閣]]時代、救済事業調査会(のち社会事業調査会)の答申に基づき、[[床次竹二郎|床次]][[内務大臣|内相]]の私的諮問機関「資本労働問題協議会」の中心メンバーであった[[徳川家達]]を会長、[[渋沢栄一]]・[[清浦奎吾]]・[[大岡育造]]を副会長に、[[1919年]][[12月22日]][[財団法人]]として発足した。発足の背景には[[米騒動]]の勃発や労働運動の急進化([[アナルコ・サンディカリズム|アナルコサンジカリズム]]の影響拡大)などがあり、これらに対抗して[[労資協調]]の促進を標榜した。その背後には、当時[[内務省 (日本)|内務省]]で急速に台頭しつつあった、社会政策を重視する[[新官僚]]の存在があった。
 
[[日本工業倶楽部]]の支持もあって[[郷誠之助]]・[[中島久万吉]]らの[[実業家]]も理事として参加し、また労働界からの協力を求めて交渉が行われたが、[[鈴木文治]]は労働組合抜きの協調主義であるとして参加を拒否したため、[[友愛会|大日本労働総同盟友愛会]]など労働団体の代表の参加はなかった。

また当時、社会問題に関する最大の研究団体であった[[社会政策学会 (日本 1897年)|社会政策学会]]においては、参加をめぐって対応が分かれ、[[桑田熊蔵]]・[[河津暹]]・[[金井延]]・[[添田寿一]]・[[神戸正雄]]・[[気賀勘重]]ら概ね「右派」と見られていた人々が常務理事・理事として参加した。しかし、桑田ら社会政策学会出身の3常務理事は発足1年後に辞任した。その背景には温情主義に固執し労働組合承認に消極的であった桑田らと、労働組合を承認しヨリ踏み込んだ社会政策を進めようとする上記の新官僚(添田敬一郎ら)の対立があったとされる
 
=== 戦時期から戦後の解散まで ===
[[1923年]]には、[[東京都|東京]][[芝公園]]内に「協調会館」が竣工し、協調会の本部が置かれたほか、労働組合・農民組合などの開催する集会の会場などとして貸し出された。会の当初の活動としては、[[工場委員]]制度の普及や争議調停に力を注ぎ、ついで[[労働組合法]]制定に尽力したが、[[1931年]]同法の制定は最終的に挫折した。戦時下の[[1938年]]には[[産業報国運動]]を提唱し[[産業報国連盟]]を結成したが政府ついよる[[第二次世界日本産業報国会]]設立([[1940年]])後まで実現際して会の一部事業これに合流し至らなかった。
 
これをきっかけに協調会の方針は、発足以来、労資協調を重視していた添田敬一郎に代わって常務理事となった[[吉田茂 (内務省出身)|吉田茂]]の提唱する、「労資一体」「社会協調」へと大きく転換することになった。戦時下の[[1938年]]、会は[[産業報国運動]]を提唱し[[産業報国連盟]]を結成したが、政府による[[大日本産業報国会]]設立([[1940年]])に際して会の一部事業はこれに合流した。しかし会自体は産業報国会への統合を拒否し、独自の立場を貫こうとした。
 
[[1945年]]の敗戦後、労働運動関係者を理事にすえ、民主的産業平和の実現を標榜して組織の再出発をはかったが、結局のところ、会の性格は「反労働者的」でありその活動「戦争協力」であるとみなした[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の勧告に従い[[1946年]][[6月26日]]解散した。解散にともない、会の主要な事業であった労働者教育を担う後継団体として[[学校法人中央労働学園|中央労働学園]]が設立、協調会が経営していた社会政策学院は中央労働学園大学と改称された。
 
=== 解散後の状況 ===
[[1945年]]の敗戦後、労働運動関係者を理事にすえ、民主的産業平和の実現を標榜して組織の再出発をはかったが、結局のところ、会の活動を「戦争協力」とみなした[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の勧告に従い[[1946年]][[6月26日]]解散した。解散にともない、会の主要な事業であった労働者教育を担う後継団体として[[学校法人中央労働学園|中央労働学園]]が設立、協調会が経営していた社会政策学院は中央労働学園大学と改称された。
協調会解散にともない、会の主要な事業であった労働者教育施設の経営を担う後継団体として[[学校法人中央労働学園|中央労働学園]]が設立された(協調会館は中央労働会館と改称された)。協調会が経営していた社会政策学院は、中央労働学園専門学校([[旧制専門学校]])への改編([[1947年]])を経て、[[1949年]]学制改革により中央労働学園大学に昇格した。2年後、中央労働学園大学は[[法政大学]]に移管され、同大学[[社会学部]]の母体となった(このため、設立当初の社会学部教授会は旧・協調会以来のスタッフで構成されていた)。[[学校法人]]としての中央労働学園は現在も存続している。
 
== 活動内容 ==
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*『労働年鑑』(1933年 - [[1943|43年]])
*『最近の社会運動』([[1929年]])</br>
協調会が収集した資料は後継団体である中央労働学園に継承されたが、中央労働学園大学の[[法政大学]]管(現・[[社会学部]])により、現在は同大学附属の[[法政大学大原社会問題研究所|大原社会問題研究所]]が・整・公開している。
 
=== 労働者教育 ===