「興禅寺 (宇都宮市)」の版間の差分

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興禅寺は、[[宇都宮氏]]8代目当主である[[宇都宮貞綱]]が、かつて[[黒羽町|黒羽]][[雲巌寺]]で第五世住職をしていた[[真空|真空妙応禅師]]のために、[[1314年]]([[正和]]3年)、地蔵堂があったこの地に寺院を建立して興禅寺としたのが始まりとされる。真空はその後、宇都宮貞綱の弟・[[宇都宮泰宗]]の子である[[宇都宮貞泰]]に招かれ、[[伊予国]][[大洲市|大洲]]に冨士山如法寺および横松山西禅寺を開山したとされる。
 
[[室町時代]]には宇都宮氏の興隆とともに隆盛を誇ったが、[[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]18年)、[[喜連川五月女坂の戦い]]において第20代当主[[宇都宮尚綱]]が敗死すると、これに乗じた壬生勢が[[宇都宮城]]下に乱入して占拠、この折の戦火で焼失してしまう。第21代当主[[宇都宮広綱]]によって復興するものの、第22代当主[[宇都宮国綱]][[豊臣秀吉]]によって領地を剥奪されたのに伴い当寺も一時廃寺となった。
 
[[江戸時代]]に入って[[奥平家昌]]が宇都宮城主となるとその勧請を受けて復興され、家昌・[[明治維新奥平忠昌|忠昌]]時の[[宇都宮城の戦い奥平昌能|戦火昌能]][[洋戦争]]におい3代が菩提寺としも大過無く現いる。なお、江戸時代の仇討ちの1つで知られる[[浄瑠璃坂の仇討]]とは、奥平氏藩中おける当寺での刃傷事件が発端となっている。
 
その後は、[[明治維新]]時の[[宇都宮城の戦い|戦火]]や[[太平洋戦争]]においても大過無く、現在に至っている。
 
== 境内 ==