「阪東妻三郎プロダクション」の版間の差分

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兇状旅 (会話 | 投稿記録)
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[[1928年]](昭和3年)1月、阪東の現代劇主演第1作として『霊の審判』の撮影を開始した。立花良介が総指揮を執り、阪東が総監督となり、[[貴司山治|伊藤好市]]が「[[朝日新聞]]」に連載した写真物語を[[江川宇礼雄]]が脚色、[[枝正義郎]]が監督するという異色の大作であったが、阪東の相手役に起用した[[松竹蒲田撮影所]]のスター女優[[龍田静枝]]が途中で病気休養となり、撮影は中止、同作は文字通りの「未完の大作」となった。この中止決定は当時「本年度の痛恨事」といわれた<ref name="龍田">『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社、1980年)の「龍田静枝」の項(p.424-425)を参照。同項執筆は[[田中純一郎]]・[[奥田久司]]。</ref>。
 
[[1929年]](昭和4年)、松竹は阪東作品の予算を押さえ込み、製作本数を9本に絞った。そこで同プロダクションはすべて阪東主演作に切り替え、最後の9本目は、阪東自身が監督するに踏み切った。「[[岡山俊太郎]]」名義による阪東妻三郎監督・主演作『石松の最期』は、[[1930年]](昭和5年)[[1月10日]]に公開された。
 
しかし、この間の度重なる松竹の冷遇を糾弾する声明を発表するとともに、同年[[6月26日]]付で阪東は松竹を脱退した。太秦撮影所を松竹に明け渡し、同撮影所は「松竹太秦撮影所」と改称された。同撮影所での最後の作品は[[犬塚稔]]監督の『からす組』前・後篇で、それぞれ同年5月9日、6月13日に松竹配給で公開された。