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このようなコンスタンティノスの政策に対し、帝国各地でゲオルギオス・マニアケスやレオーン・トルニキオスなどの軍事貴族出身の将軍達が反乱を起こし、帝国はさらに衰退してしまった。反乱は何とか鎮圧したが、[[南イタリア]]の守備を担当していたマニアケスが反乱を起して死亡したために南イタリアには[[ノルマン人]]が侵入し、イタリア半島の東ローマ帝国領は失われていった。
 
[[1054年]]、共に野心的な[[ローマ教皇]][[レオ9世_(ローマ教皇)|レオ9世]]と[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]][[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ミカエル1世ケルラリオス]]との関係が決定的に悪化。7月16日にフンベルト[[枢機卿]]がハギア・ソフィア大聖堂の[[宝座 (正教会)|宝座]]にミカエル1世とその支持者に対する破門状を置き、ミカエル1世も民衆を扇動して皇帝を動かし、ローマ教会の使節団の破門を決定した。コンスタンティノス9世自身は[[ノルマン人]]の[[南イタリア]]侵入に対抗するために両教会の関係改善を望んでいたが、意志が弱いコンスタンティノスはミカエル1世を抑えられず、東西キリスト教会の分裂は深まった([[東西教会の分裂]])。南イタリアはノルマン人に奪われてしまった。
 
このように帝国が混迷を極める中での1055年、コンスタンティノス9世は病死した。
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[[Category:東ローマ皇帝]]
[[Category:958年生]]