「セテワヨ・カムパンデ」の版間の差分

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[[画像:Cetewayo-medal.jpg|150px|right|thumb|ロンドンで来訪者に送ったメダル]]
 
19821882年、イギリス本土の[[ロンドン]]への移動が認められ女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]と会談、ズールーランドへの帰還を要請した。
 
セテワヨの退位後、[[アフリカーナー|ボーア人]]の支援のもとで血族間の抗争が絶えなかったため、1883年1月10日、イギリスはセテワヨをズールーランドに帰還させ、復位させ、ウルンディ周辺の施政権を返上した。しかしセテワヨに以前の影響力は無く、ウルンディが襲撃されてセテワヨは負傷しながらもヌカンドラ森に逃亡した。10月15日、イギリスの護衛を受けて南部の[[w:Eshowe, KwaZulu-Natal|エショウェ]]に着いた。
 
19841884年、セテワヨはエショウェで亡くなり、ヌカンドラの森に埋葬された。検視が行われなかったため心臓発作と診断されたが、同時期にズールーの有力者にも同様な様子で亡くなったことからイギリスまたはボーア人による毒殺の可能性も指摘されている。<ref>http://africanhistory.about.com/library/biographies/blbio-cetshwayo.htm</ref>
 
== 脚注 ==