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その後、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]の入団テストに合格し入団。毎年開幕ベンチには入るものの、運悪く即怪我→二軍落ちというパターンを繰り返す。同じパターンを繰り返していた同時テスト合格の[[森山一人]]外野手と毎年の様に整理要員となるものの[[王貞治]]監督の信頼もあつく、「ちゃんと出場すれば2割8分、15本塁打はかたい」と言われ、残っていた。[[2001年]]にダイエーで初ヒット。[[2002年]]には、[[秋山幸二]]の引退宣言もあり、夏場からはライトの守備位置を獲得。打率.268、6本塁打、24打点という成績を残す。
 
[[2003年]]は[[村松有人]]が打ち出した為、レギュラーの座は明け渡したものの、左投手用の代打や守備要員として一軍に定着する。後半戦は村松が怪我のためその間の代役も果たした。[[阪神タイガース]]との日本シリーズでも、1番ライトとして先発出場した。持病の[[ヘルニア]]に悩まされ、満足にバットを振れない中、それなりに自分の地位を獲得してきたが、[[2005年]]には[[大村直之]]の[[フリーエージェント|FA]]入団、同期の[[宮地克彦]]の活躍により、開幕ベンチを失う。5月に一度一軍に上がったものの、[[5月19日]][[福岡ドーム]]での古巣・巨人戦で右翼守備に入るも、[[二岡智宏]]の打球を右翼守備で、ダイビングキャッチを試みた際にボールを蹴ってランニングホームランにしてしまうという失態を犯してしまい、9月まで一軍には呼ばれなかった。
 
同年9月、戦力外通告を受ける。12球団合同トライアウトに望むものの、獲得意思を示した球団はなく現役引退。この様子は、2005年[[12月28日]]に[[東京放送|TBS]]で放送された『[[プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達]]』の中で紹介された。ホークスでは、同期の[[鳥越裕介]]、[[田之上慶三郎]]、宮地克彦らと非常に仲がよく、「71年会」と呼ばれた。[[コンバット満]]からは、[[川崎宗則]]が一軍定着するまで「ホークスで一番の男前」と言われていた。