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2008年9月27日 (土) 06:32時点における版

お静の方は、江戸時代初期に生きた女性。徳川第2代将軍徳川秀忠の愛妾で、四男・保科正之(会津松平家初代藩主)の生母。


略歴

武蔵板橋(東京都板橋区)の大工、もしくは領民の娘として生まれる。生家の貧しいお静は、幼少期から奉公に出され、苦労を重ねていたという。後に秀忠の乳母の下女となり、さらに大奥に仕えた。大奥で御末(御半下)として働いていたお静は、いつの間にか秀忠の目にとまり、やがて寵愛を受けるようになる。

しかし、秀忠の正室である御台所・お江与(崇源院)は秀忠より6歳年上で、大変嫉妬深かったという。以前秀忠が身辺に置こうとした女中が変死を遂げたこともあり、お静は正式な側室となることができず、恐妻家の秀忠はお江与に隠れてお静の元へ通った。

慶長15年(1610)、お静は懐妊する。しかし、秀忠はお江与に知れるのを恐れ、穴山信君(梅雪)の未亡人である見性院 (穴山梅雪正室)に頼み込んで身重のお静を預かってもらった。そして、お静は同16年(1611)5月7日に男児・幸松丸を生む。

幕閣の井上正就や見性院らは、秀忠に幸松丸と「父子の対面」をするように懇願した。しかし秀忠は対面を拒み、譜代大名保科正光にお静と幸松丸を預ける。

やがて、正光は幸松丸こと正之を実子として幕府に届け出た。そして「父子の対面」が実現したのは、崇源院の病没後のことであった。


お静は寛永12年(1635)9月17日に保科家で病没した。行年は29などとする説があるが、定かではない。法号は浄光院といい、浄光寺(福島県会津若松市)に墓碑がある。なお、正之は後に3代将軍・徳川家光に異母兄弟の名を明かし、家光・家綱と2代に渡って補佐役として幕府を守っていく。その子孫は松平姓に改姓し、陸奥会津若松藩主として存続した。