「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
15行目:
何も得るところのなかったミハイル公は、1371年初頭に再度ハン国を訪れ、状況の改善を求めた。ママイは、再度彼に大公位を認めたが、しかし軍事援助は断固として拒否した。これにより、ミハイルの立場は一層悪化したと言える。モスクワのドミトリイはミハイルの失策にかこつけて、全ルーシに、ミハイルに非協力的態度をとるよう命令を出す。反モンゴル感情を利用したこの命令は効果を発揮し、その結果、ミハイルはウラジーミルの町への入場を住民から拒否された。ミハイルに同行していたママイの使節サルィホジャは、[[ペレヤスラヴリ・ザレスキー]]の町に軍を終結させていたモスクワのドミトリイに、ママイの命令に従うよう命じるが、ドミトリイはこれを拒絶する。加えてここでドミトリイの懐柔策により、サルィホジャはミハイルを放ったまま、ハン国に帰還してしまう。ミハイルは[[ウラジーミル]]からヴェジェツキー・ヴェルフに、そしてノヴゴロドを目指すがそれは適わず、トヴェリに転進する。ミハイルは息子[[イヴァン・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)|イヴァン]]をハン国に派遣し、モスクワのドミトリーを訴えた。そこでドミトリイはハン国に向かい、サルィホジャの援助を受けて自分を正当化し、大公のヤルルィクを得ることに成功する。次いでハン国からミハイルに対し、ここに至っては大公位から降りるよう伝令が来た。
 
この頃、ドミトリイの不在にあたり、ミハイルはモスクワを攻撃し、[[コストロマ]]、[[ウグリチ]]、ヴェジェツキー・ヴェルフを占領する。こうした卑怯な行為に、[[ノヴゴロド]]さえもモスクワと同盟する。
 
ドミトリイは帰国後、まずヴェジェツキー・ヴェルフを解放する。しかし、リャザン攻撃に軍を割いている間に、ミハイルはキストマを攻撃、[[ドミトロフ]]を包囲、ペレヤスラヴリ・ザレスキーを占領する(1371/1372年の冬)。カシン公ミハイルがモスクワに逃亡してドミトリイと同盟したことを聞くやいなや、トヴェリ大公ミハイルはカシンを占領し、次いで[[トルジョーク]]に向かい、自分の代官をおいて去る。ノヴゴロド軍がこれを解放すると、再度ミハイルはトルジョークを攻撃し、今度はトルジョークを破壊した。そしてついにアルギルダスと共に、またもやモスクワ攻撃を行うまでに至る。今回はドミトリイも攻撃を事前に察知し、リュベツク付近で両軍が衝突した。モスクワ軍は最初の衝突でリトアニア軍の前衛を打ち破り、アルギルダスは後退を余儀なくされる。その後数日間の対峙の後、二ヶ月ほどの休戦が締結される。これによりミハイルは大公国各地に配された代官の撤収を義務づけられる。彼はトヴェリに戻る。この頃、彼の敵であったカシン公ミハイルが死去。休戦期間が終わろうとする頃、ミハイルはトヴェリの回りに堀と土塁を巡らせ始める。しかし軍事活動は起こらなかった。当時、モスクワ軍はオカ川でハン国の軍の攻撃に備えていた。1373年末に、モスクワとトヴェリは平和条約を結び、当時モスクワに捕らわれていたミハイルの息子イヴァンをモスクワは身代金を取った上で解放する。ミハイルは、各地の代官を引き上げさせた。
33行目:
スーズダリ公コンスタンチン・ヴァシリエヴィチの娘エフドキヤを妃とし、6人の子を授かった。アレクサンドル、小アレクサンドル、[[イヴァン・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)|イヴァン]]、ヴァシーリー、ボリス、フョードルである。ミハイル死後、トヴェリ大公になったのはイヴァン。
 
[[Category{{DEFAULTSORT:トヴェリ大公|みはいる]]}}
[[Category:ウラジーミルトヴェリ大公|みはいる]]
[[Category:1333年生|みはいるウラジーミル大公]]
[[Category:13991333|みはいる]]
[[Category:1399年没]]
 
[[en:Mikhail_II_of_Tver]]