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{{Otheruses|ノンフィクション作家の吉田司|相撲の宗家|吉田司家}}
 
'''吉田 司'''(よしだ つかさ、[[1945年]][[9月29日]] - )は、[[ノンフィクション作家]]
 
[[山形県]][[山形市]]生まれ。
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父親が両足が不自由になり、母親は農村で「一銭店」と呼ばれる雑貨屋を営むことになる。毎晩、酔っぱらった農民たちが押し寄せ、飲めや歌えで、卑猥な踊りをやる状態で農民への憎悪を抱く。「庶民の醜さ、汚さ」を知り、インテリが陥いりがちな民衆への無条件な賛美とは一線を画する後の活動の原点となる。
 
[[早稲田大学]]文学部在学中に、映画監督[[小川紳介]]の小川プロダクション結成に参加、[[1968年]]、「日本解放戦線 [[三里塚]]の夏」の演出助手を務めた。だが、「大地主の孫」としての小川の、贖罪意識から発している「農民賛歌」の偽善性に耐えられず、小川プロを離脱(小川紳介への批判は、[[藤吉雅春]]『ノンフィクションを書く』(ビレッジセンター)中にある吉田へのインタビューで、詳細に語られている
 
[[1970年]]から[[水俣市|水俣]]に住み、胎児性の[[水俣病]]患者らと若衆宿を組織。国の補償金を貰った水俣病患者たちの生態を赤裸々に描いた最初の著作『下下(げげ)戦記』で、1988年、[[大宅壮一ノンフィクション賞]]を受賞。
 
美しいとされているものの実態を暴く手法に特徴があり、[[1993年]]の『ひめゆり忠臣蔵』では、戦争哀話として知られる沖縄の[[ひめゆり学徒隊]]について、それが戦争協力の部隊であったことを、揶揄するような文体で描いて抗議を受け、改訂した。
 
また[[1997年]]の『宮澤賢治殺人事件』では、生誕百年(1996([[1996]])を期して[[宮沢賢治]]関連書籍が数多く出る中、賢治が国粋主義的な仏教団体である[[国柱会]]に属していたことから長生していれば戦争に協力した可能性や、農民への無償の奉仕や文化活動を試みた[[羅須地人協会]]の非現実性を指摘した。さらに自身の母親が、賢治没後の宣伝に一役買ったことにも触れて偶像破壊を行い、物議を醸した。『[[批評空間]]』では[[柄谷行人]]が吉田を呼んで討論を行い、賢治を批判、同時に、その頃『最新[[宮澤賢治]]講義』を刊行した[[小森陽一 (国文学者)|小森陽一]]は、それまで協働的立場にあった柄谷から批判されることになった。
 
== 著書 ==
* 下下戦記 ([[白水社, ]]、1987 のち[[文春文庫]])
* 夜の食国(おすくに)(白水社, 1987、1987)
* 宗教ニッポン狂騒曲 ([[春秋, 1990]]、1990)
* 世紀末ニッポン漂流記 ([[新潮社, 1993]]、1993)
* ひめゆり忠臣蔵 ([[太田出版, 1993]]、1993)
* ひめゆり忠臣蔵 改訂再版 太田出版, 1994、1994)
* [[ビル・ゲイツ]]に会った日 ([[講談社, ]]、1996 「デジタル・パラノイア」と改題、[[徳間文庫]])
* 宮澤賢治殺人事件 太田出版, 1997 のち文春文庫
* スター誕生 [[美空ひばり|ひばり]]・[[萬屋錦之介|錦之助]]・[[石原裕次郎|裕次郎]]・[[渥美清]]そして新・復興期の精神 ([[講談社, ]]、1999 「ひばり裕次郎昭和の謎」と改題増補、講談社+α文庫
* ニッポンの舞台裏 ([[洋泉社, 1999]]、1999)
* [[孫正義]]は倒れない [[AERA|アエラ]]取材班共著 ([[朝日新聞社, 2001]]、2001)
* あなたは男でしょ。強く生きなきゃ、ダメなの 草風館, 2001、2001)
* 聖賤記 吉田司対談集 ([[パロル舎, 2003]]、2003)
* 新宗教の精神構造 ([[角川書店, 2003]]、2003)
* 王道楽土の戦争 全2冊 ([[日本放送出版協会, 2005 (NHK]]、2005)(NHKブックス)
* そして、憲法九条は。 [[姜尚中]]対談 ([[晶文社, 2006]]、2006)
 
{{DEFAULTSORT:よした つかさ}}