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{{クラシック音楽}}
'''イサイ・ドブローウェン'''('''''Issay Dobrowen''''', [[1893年]][[2月27日]] - [[1953年]][[12月9日]])は、[[ロシア]]出身の[[指揮者]]。ロシア語名は、イサイ・アレクサンドロヴィチ・ドブロヴェニ('''{{lang-ru|Исай Александрович Добровейн}}''')。[[ノルウェー]]を活動の中心拠点とし[[指揮者1929年]]に[[市民権]]を得てノルウェーに[[帰化]]した
 
== 略歴 ==
ニジニ・ノヴゴロドの生まれ。
[[ニジニー・ノヴゴロド]]に生まれる。本名はイツハク・ゾラホヴィチ・バラベイチク(''Itschok Zorachovitch Barabeitchik'')といった。生地の音楽院学んだ後、[[モスクワ音楽院]]で[[セルゲイ・タネーエフ]]に作曲を師事し、[[ウィーン]]に[[留学]]して[[レオポルド・ゴドフスキー]]に[[ピアノ]]習っている学ぶ。[[1919年]]から[[ボリショイ劇場]]の指揮者を務めた
[[1919年]]から[[ボリショイ劇場]]で指揮者を務め、[[1922年]]には国外に出てドレスデンのゼンパー・オーパーで《ボリス・ゴドゥノフ》のドイツ初演を指揮し、脚光を浴びることとなった。
[[1927年]]には[[オスロ・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者に就任し、[[1930年]]からは、[[ベイジル・キャメロン]]と共に[[サンフランシスコ交響楽団]]の首席指揮者を務めている。
[[1941年]]から亡くなるまで、[[イェーテボリ交響楽団]]の首席指揮者を務める一方、[[ミラノ・スカラ座]]にも定期的に客演し、ロシア・オペラを積極的に紹介していた。
[[オスロ]]で亡くなった。
{{DEFAULTSORT:とふろおえん いさい}}
 
[[1922年]]に[[ソ連]]を去り、[[ドレスデン]]の[[ゼンパー・オーパー]]で《[[ボリス・ゴドゥノフ]]》のドイツ初演を指揮して脚光を浴びた。[[1927年]]に[[オスロ・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者に就任し、[[1930年]]からは[[1934年]]まで[[ベイジル・キャメロン]]と共に[[サンフランシスコ交響楽団]]の首席指揮者を務めている。[[1941年]]から亡くなるまで、[[イェーテボリ交響楽団]]の首席指揮者を務める一方、[[ミラノ・スカラ座]]にも定期的に客演し、ロシア・オペラを積極的に紹介した。
 
[[1952年]]12月にオスロ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したのが、北欧における最後の公演となった。生涯最後の公演は、[[1953年]][[1月19日]]に[[シュトゥットガルト]]管弦楽団を指揮した時であった。同年12月に[[オスロ]]で亡くなった。
 
== 作品 ==
あまり知られていないが、[[セルゲイ・ラフマニノフ]]を彷彿とさせる非常に美しいピアノ曲を創った。小品だけでなく、ピアノ・ソナタやヴァイオリン・ソナタも再評価を受けるようになるであろう。《ピアノ協奏曲 嬰ハ短調》作品20は、魅力的なメランコリーの表現においてラフマニノフやメトネルの作風との共通点が見られるだけでなく、色彩的な[[管弦楽法]]において[[スクリャービン]]との類似も感じさせる。
 
== エピソード ==
ドブローウェンは、[[ニコライ・メトネル]]や[[アルトゥール・シュナーベル]]と共演しており、ロシアの作家[[マクシム・ゴーリキー]]やノルウェーの探検家で政治家の[[フリチョフ・ナンセン]]とも親しかった。また、[[レーニン]]が[[ベートーヴェン]]の《[[ピアノソナタ第23番_(ベートーヴェン)|熱情ソナタ]]》をお気に入りであるというので、この曲をレーニン本人の御前で演奏したことがある。
 
== 外部リンク ==
* [http://www.norge.ru/music/dobrovejn.html Issay Dobrowen biography] {{ru icon}}
* [http://www.simax.no/artikkel.php?id=953 Issay Dobrowen biography from Simax]
 
 
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[[Category:ロシアの指揮者]]
[[Category:1893年生]]