「マルクス・アンナエウス・ルカヌス」の版間の差分

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まもなく、ルカヌスとネロの間に確執が生じた。タキトゥスとスエトニウスの説では違いがあり、タキトゥスは、ネロがルカヌスに嫉妬して詩の出版を禁じたと言い<ref>タキトゥス『年代記』XV.49</ref>、一方スエトニウスは、ネロはルカヌスに興味を失い、ルカヌスを無視し続け、ルカヌスはそのお返しに、ネロを侮辱する詩を書いたと言っている<ref> スエトニウス『Lives of the Poets』Life of Lucanus</ref>。どちらも確執を卑小なものにしているが、中にはもっと深刻な理由があったとする本もある。文法学者ヴァッカと詩人スタティウスは、ルカヌスがネロを侮辱する詩を書いたという説を支持しているようで、ヴァッカはルカヌスの詩の中に『De Incendio Urbis(都市の炎上について)』と題されたものがあることを言及している<ref>ヴァッカ『Life of Lucanus』</ref>。スタティウスのルカヌスへの[[頌歌]]では、ルカヌスが「罪ある暴君の筆舌に尽くしがたい炎がレムスの丘をかけめぐる」と叙述していたことを言及している<ref>スタティウス『Silvae』II.vii</ref>。さらに、『ファルサリア』の後の巻、具体的に第10巻は、帝国反対・共和制賛成の立場を取っていた。ネロと皇帝職に対する批判が、禁書の真の理由だったのかも知れない。
 
[[65年]]、ルカヌスはネロに対するガイウス・カルプルニウス・ピーソー([[:en:Gaius Calpurnius Piso]])の陰謀に参加した。しかし発覚し、ルカヌスは[[外患罪]]を申し立てられ、[[恩赦]]を願う母親たちに罪が及ぶ前に、静脈切開による自殺を強いられた。享年25歳だった。タキトゥスによると、ルカヌスは出血多量で死ぬ時に、「似たような死に方をする負傷兵の話を書いた自分の詩を思いだし、かなりの行を暗唱した<ref>おそらく『ファルサリア(内乱)』の第4巻516-7と思われる。</ref>。それが彼の最後の言葉だった」<ref>タキトゥス『年代記』XV.70</ref>