「カルナータカ州」の版間の差分

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カルナータカ州は西を[[アラビア海]]に面し、北西を[[ゴア州]]と接し、北を[[マハラシュトラ州]]と接し、南東を[[タミル・ナードゥ州]]と接し、東を[[アーンドラ・プラデーシュ州]]と接し、南西を[[ケーララ州]]と接している。面積は191,791平方キロで、全インドの5.83%を占める。[[カンナダ語]]が[[公用語]]で、最も話されている言語である。
 
カルナータカの語源としては、カンナダ語のカル(karu)とナードゥ(nādu)で「高地」を指すという説、カル・ナドゥ(黒い地域)が黒い綿土を指すという説、かつてのイギリス系[[藩王]]が[[クリシュナ川]]以南の[[インド亜大陸]]の両側を指す語として「カーナティック(CarnaticまたはKarnatak)」を使用したとの説など、いくつかの説がある。<!--<ref>See [[Lord Macaulay]]'s life of Clive and James Tallboys Wheeler: ''Early History of British India'', London (1878) p.98. The principal meaning is the western half of this area, but the rulers there controlled the [[Coromandel Coast]] as well.</ref> -->
 
[[旧石器時代]]までさかのぼると、カルナータカは[[古代インド]]の有力な[[帝国]]の地でもあった。これらの帝国によって支持された[[哲学者]]や音楽的[[詩人]]などが、社会宗教的で文学的な文化活動を生み、現在まで伝えられている。カルナータカでは[[カルナータカ音楽|カルナタカ音楽]]と[[ヒンドゥースターニー音楽]]の両方の[[インドの伝統音楽|インド古典音楽]]の豊かな伝統も生まれた。カンナダ語文学の作家はインドの[[文学賞]]を最も多く受賞している。
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[[Image:Belur4.jpg|thumb|left|[[べルール]]のチェナケシェヴァ寺院聖堂入り口の[[ホイサラ朝]]様式のレリーフ]]
 
カルナータカの歴史は、この地域で手斧(ハンド=アックス)などが発見され[[旧石器時代]]にまでさかのぼる。[[新石器時代]]や[[巨石文化]]の遺跡<ref>[[ブラフマギリ]]などが好例として挙げられる。</ref>もこの州で見つかっている。[[ハラッパー]]遺跡で発見された[[金]]もカルナータカより持ち込まれたものであり、一般に、[[紀元前3000年]]には古代カルナータカは[[インダス文明]]との接触があったという仮説が成り立っている。<!--<ref>{{cite web|url=http://web.archive.org/web/20070121024542/http://metalrg.iisc.ernet.in/~wootz/heritage/K-hertage.htm|title=THE Golden Heritage of Karnataka|author=S. Ranganathan|work=Online webpage of the Department of Metallurgy|publisher=Indian Institute of Science, Bangalore|accessdate=2007-06-07}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.ancientindia.co.uk/staff/resources/background/bg16/home.html|title= Trade |accessdate=2007-05-06 |publisher=[[The British Museum]]}}</ref> -->
 
[[紀元前3世紀]]以前の[[アショーカ王]]の[[マウリヤ朝]]成立前は、カルナータカは[[ナンダ朝]]の一部であった。その後、[[サータヴァーハナ朝]]支配の400年が続き、カルナータカの大部分が支配下に置かれた。サータヴァーハナ朝が没落し、[[カダンバ朝]]と[[西ガンガ朝]]という初期の地元の独立王朝が成立した。[[マユラシャルマ]]に成立したカダンバ朝は[[バナヴァシ]]に都を置いた。
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この時代の後、北部カルナータカは[[イギリス]]といち早く友好関係を結び、その隷下となった[[ハイデラバード|ハイダラーバード]]の[[ニザーム藩王国]]の支配下となる。南部では、ヴィジャヤナガル朝の元属国であった[[マイソール藩王国]]が独立しつつあった。<ref name="ind">Kamath (2001), p171</ref>マイソール軍の将軍であった[[ハイダル・アーリー]]は、君主[[クリシュナ・ウォデヤール2世]]の死後、この地域を支配下に置いた。アーリーの死後、マイソール藩王国は彼の息子[[ティプー・スルタン]]に引き継がれた。<ref name="tip">Kamath (2001), p171, p173, p174, p204</ref> 南インドのヨーロッパ勢力拡大を止めるため、またイギリスのインド植民地化政策に反対し、アーリーとティプーは[[マイソール戦争]]として徹底的に戦った。結果としてティプーも白兵戦で戦死し敗れ、この地域は1799年にイギリスの[[イギリス領インド帝国|植民地]]と化した。<ref name="tip1">Kamath (2001), pp. 231–234</ref>[[マイソール藩王国]]は[[イギリス領インド帝国]]のもと、藩王国として[[ウォディヤール]]の管理下に戻され、残された。
 
その後、当時の[[インドの総督|インド総督]]であった[[ジェームズ・ラムゼイ]]伯爵による「[[失権の原理]]」がインド国中で藩王国の異議と反抗を呼び、[[1857年]]の[[インド大反乱]]の約30年前の[[1830年]]に、カルナータカで[[チェンナンマ王妃]]と[[サンゴリ・ラヤンナ]]などが反旗を上げた。また、[[スパ_(インド)|スパ]]、[[バガルコット]]、[[ショラプール]]、[[ナルグンド]]、[[ダンデリ]]などでも同様の蜂起が起こった。[[1857年]]の[[インド大反乱]]とあわせて、いくつかの蜂起が起こった。[[19世紀]]末までには、インド解放運動には勢いがつき、[[20世紀]]に突入していくこととなった。<!--<ref>{{cite web|url=http://www.deccanherald.com/Content/May202007/sundayherald200705192574.asp|title=The rising in the south|work=Online Edition of The Deccan Herald, dated 2007-05-20|accessdate=2007-07-20|publisher=The Printers (Mysore) Private Limited|author=Suryanath Kamath}}</ref>-->
 
インド独立後は、[[ウォディヤール]]藩王家はインドへの編入に同意し、[[1950年]]にはマイスール藩王国は同名の[[州]]となった。元藩王は[[1975年]]までラジプラムークの称号で州知事を勤めた。その後、悲願であったカルナータカ再統合運動を受け、[[1956年]]の[[国家再編法]]により、[[マドラス]]、[[ハイデラバード]]、[[ボンベイ]]の[[コダグ語]]、[[カンナダ語]]を話す地域をマイスール州に編入し、17年後の[[1973年]]に州名をカルナータカ州と改称した。<!--<ref name="Unification">{{cite web|url=http://www.deccanherald.com/archives/images/Rajyotsava12352120051031.asp|title=History in the making|work=Online Edition of The Deccan Herald, dated 2005-11-01|author=Prem Paul Ninan|accessdate=2007-07-24}}</ref>-->
 
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