「ヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ」の版間の差分

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15歳でスウェーデン宮廷へやってきた時から、小さな公爵夫人と呼ばれ、その機知と美しさで社交界の中心人物となった。引っ込み思案だった[[ソフィア・マグダレーナ]]王妃と対照的な華やかな存在として、当時のファッションでも宮廷一の理想の女性だった。夫カールもヘートヴィヒも、多くの愛人がいたことが知られており、ヘートヴィヒは[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン|フェルセン伯爵]]と一時期関係があった。
 
カールとヘートヴィヒの間には、ロヴィサとカール・アドルフの2子が生まれたが、ともに1歳になる前に夭折し、その後子供に恵まれなかった。後継問題[[1809年]]に夫生じ[[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]]として即位すると、ヘートヴィヒも王妃となったが、同時に王位継承者が問題となった。ヘートヴィヒは退位した[[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世アドルフ]]かその長男[[グスタフ (ヴァーサ公)|グスタフ]]の復位を支持するグスタフ派に就いた。しかし、カールが[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]配下のジャン=バティスト・ベルナドット元帥(のちの[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]])を後継と決めると渋々受け入れた。[[1810年]]、ベルナドットのスウェーデン来訪時には冷たく接したと言われるが、その人間的魅力を知ったヘートヴィヒはすぐベルナドットびいきとなった。しかし、翌1811年にスウェーデン入りした妻[[デジレ・クラリー]]のことは好きになれず、宮廷であからさまに侮蔑していたという。あまりの居づらさと慣れない気候に耐えかね、デジレは半年で夫と一人息子[[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル]]を残して単身[[フランス]]へ帰り、再びスウェーデンで暮らすようになったのはヘートヴィヒの死後の[[1823年]]からであった。
 
ヘートヴィヒは[[1818年]]に[[ストックホルム]]で没した。