「ブロニスラフ・フーベルマン」の版間の差分

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'''ブロニスラフ・フーベルマン'''<small>([[ブロニスワフ・フーベルマン]][[ブロニスフ・フベルマン|ブロニスラフ・フーバーマン]])</small>'''Bronisław Huberman''', [[1882年]][[12月19日]] [[チェンストホヴァ]] - [[1947年]][[6月15日]]あるいは[[6月16日]] [[ジュネーヴ]]近郊)は[[ポーランド]]出身の[[ヴァイオリニスト]]で、パレスチナ管弦楽団(後の[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]])の創設者の一人。
 
==年譜==
翌年[[1896年]]には齢13歳でウィーンのムジークフェラインザールにて[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の前で彼のヴァイオリン協奏曲を演奏、作曲者をいたく感動させた。演奏終了後、カデンツァの途中で湧き起こった聴衆の拍手に動揺してうまく弾けなかったと言って詫びるフーベルマンに対し、ブラームスは「そんなに美しく演奏するからさ」と慰め、「Br.フーベルマンへ 1896年2月1日のウィーンと、感謝に満ちた彼の聴き手であるJ.ブラームスを親しく思い出してくれることを願って」とサインした自らの肖像画を贈るとともに、ヴァイオリンとオーケストラのための幻想曲を作曲することを約束したという。この約束はブラームスの死により果たされなかったが、これにより、フーベルマンはヨーロッパ音楽界の寵児となる。同年にはアメリカを演奏旅行する。
 
[[1902年]]までと[[第一次世界大戦]]での演奏中断期をはさんで、ベルリンを本拠にヨーロッパにおいて活躍していたが、[[1933年]]、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]の政権獲得とともに抗議キャンペーンを開始。1920年代はベルリンを本拠にして活動していたが、[[ナチス]]の台頭に伴いドイツを離れた。
 
その一方で[[1936年]]、若いユダヤ人亡命音楽家を集めてパレスチナ管弦楽団を結成([[1948年]]にイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団と改称)。予てから敬愛していた[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]を最初のコンサートの指揮者として迎えた(この初演奏会には、フーベルマン自身は、自分の売名行為であることを避けるため、出演を辞退している)。しかし、その翌年の[[1937年]]に、演奏旅行先の[[ジャワ島]]の空港で飛行機事故に巻き込まれ両腕を負傷。一時は再起不能説も出たが、不屈の精神で復帰を果たし、戦時中はアメリカで演奏活動を行った。
 
[[第二次世界大戦]]中から[[1946年]]までアメリカで過ごし、その後ヨーロッパ楽壇にも復帰したが健康を害し、ジュネーヴ近郊に没した。臨終の地については、コルジェ=シュル=ヴヴェともナンともされる。
==総評==
[[image:Bronislaw_Huberman.jpg|220px]]
フーベルマンのヴァイオリン演奏は当時の並み居るヴァイオリニストの中でも特に個性的なもので、[[カール・フレッシュ]]らの正統派ヴァイオリニストから異端視されてきたが、その強烈な個性をもって訴えかける音楽は、特に東欧とドイツ圏において絶大な人気を博した。[[第二次世界大戦]]後ほどなくして亡くなったこともあり、[[ステレオ]]録音のような高音質の録音は残っていないが、[[SPレコード]]で遺された録音を通じて今も多くのファンの心を捉えてやまない。彼のテクニックはすっきりとした香りのある音色を基調とし、飛び跳ねるような固めのスピッカート、大きく幅をとりゆっくりとしたヴィブラート、艶かしいポルタメント、フラウタンドなどを駆使して、その音楽の表情は自在に千変万化した。フーベルマンは[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]に比肩するほどのヴィルトゥオーゾであり、[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、[[エドゥアール・ラロ|ラロ]]、[[ヘンリク・ヴィエニャフスキ|ヴィエニャフスキ]]、[[パブロ・デ・サラサーテ|サラサーテ]]などの技巧曲を得意にしたのは言うまでもないが、同時に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]などの深い精神性を必要とする音楽も他の追随を許さなかった。それは弟子である[[ヘンリク・シェリング]]に引き継がれているといえる。
 
最晩年のブラームスはフーベルマンに新作の献呈を約束していたが、すでにガン性の[[肝硬変]]が進行しており、実現できなかった。しかし、奇しくもブラームスの没年に生まれた[[エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト|コルンゴルト]]は、フーベルマンのために自作の劇音楽空騒ぎ作品14からヴァイオリン組曲を編んだだけでなく、フーベルマンの依嘱に応じて[[ヴァイオリン協奏曲 (コルンゴルト)|ヴァイオリン協奏曲]]を作曲した(しかし協奏曲は、[[アルマ・マーラー=ヴェルフェル]]に献呈されている)。コルンゴルトの協奏曲における数々の超絶技巧は、結局ハイフェッツの録音により知らしめられたが、実際はフーベルマンのテクニックを想定して書かれているのである。この協奏曲の初演権は、当然フーベルマンに与えられたが、フーベルマンがハイフェッツのリハーサルを耳にして断念、権利をハイフェッツに譲ったとの逸話が伝えられている。[[ハヴァーガル・ブライアン]]の[[ヴァイオリン協奏曲]]もフーベルマンの演奏を想定して作曲されたが、フーベルマンが演奏することはついになかった。
フーベルマンのヴァイオリン演奏は当時の並み居るヴァイオリニストの中でも特に個性的なもので、[[カール・フレッシュ]]らの正統派ヴァイオリニストから異端視されてきたが、その強烈な個性をもって訴えかける音楽は、特に東欧とドイツ圏において絶大な人気を博した。[[第二次世界大戦]]後ほどなくして亡くなったこともあり、[[ステレオ]]録音のような高音質の録音は残っていないが、[[SP]]で遺された録音を通じて今も多くのファンの心を捉えてやまない。彼のテクニックはすっきりとした香りのある音色を基調とし、飛び跳ねるような固めのスピッカート、大きく幅をとりゆっくりとしたヴィブラート、艶かしいポルタメント、フラウタンドなどを駆使して、その音楽の表情は自在に千変万化した。フーベルマンは[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]に比肩するほどのヴィルトゥオーゾであり、[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、[[エドゥアール・ラロ|ラロ]]、[[ヘンリク・ヴィエニャフスキ|ヴィエニャフスキ]]、[[パブロ・デ・サラサーテ|サラサーテ]]などの技巧曲を得意にしたのは言うまでもないが、同時に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]などの深い精神性を必要とする音楽も他の追随を許さなかった。それは弟子である[[ヘンリク・シェリング]]に引き継がれているといえる。
 
最晩年のブラームスはフーベルマンに新作の献呈を約束していたが、すでにガン性の[[肝硬変]]が進行しており、実現できなかった。しかし、奇しくもブラームスの没年に生まれた[[エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト|コルンゴルト]]は、フーベルマンのために自作の劇音楽≪空騒ぎ≫作品14からヴァイオリン組曲を編んだだけでなく、フーベルマンの依嘱に応じて≪ヴァイオリン協奏曲≫を作曲した(しかし協奏曲は、[[アルマ・マーラー=ヴェルフェル]]に献呈されている)。コルンゴルトの協奏曲における数々の超絶技巧は、結局ハイフェッツの録音により知らしめられたが、実際はフーベルマンのテクニックを想定して書かれているのである。この協奏曲の初演権は、当然フーベルマンに与えられたが、フーベルマンがハイフェッツのリハーサルを耳にして断念、権利をハイフェッツに譲ったとの逸話が伝えられている。[[ハヴァーガル・ブライアン]]の[[ヴァイオリン協奏曲]]もフーベルマンの演奏を想定して作曲されたが、フーベルマンが演奏することはついになかった。
 
==代表的な演奏==
SPに吹き込んだ[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]][[ヴァイオリン協奏曲 (チャイコフスキー)|ヴァイオリン協奏曲]]が最も有名。しかし、カットが多い。
 
== 外部リンク ==
* [http://www.huberman.info/ Bronislaw Huberman]
 
[[Category{{DEFAULTSORT:ポーランドのヴァイオリニスト|ふへるまん ふろにすわふ]]}}
[[Category:1882年生|ふへるまん ふろにすわふポーランドのヴァイオリニスト]]
[[Category:1947年没|ふへるまん ふろにすわふユダヤ系ポーランド人]]
[[Category:1882年生]]
[[Category:1947年没]]
 
[[de:Bronisław Huberman]]
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