「ブロニスラフ・フーベルマン」の版間の差分

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[[1895年]]1月、[[ウィーン]]で行われた大歌手[[アデリーナ・パッティ]]の決別演奏会で大成功を収める。翌年[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]の[[フーゴー・ヘールマン]]に師事し、パリで2~3度[[ピエール=マルタン・マルシック]]の指導を受けたという。
 
翌年[[1896年]]には齢13歳でウィーンの[[ウィーン楽友協会|ムジークフェラインザール]]にて[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の前で彼のヴァイオリン協奏曲を演奏、作曲者をいたく感動させた。演奏終了後、カデンツァの途中で湧き起こった聴衆の拍手に動揺してうまく弾けなかったと言って詫びるフーベルマンに対し、ブラームスは「そんなに美しく演奏するからさ」と慰め、「Br.フーベルマンへ 1896年2月1日のウィーンと、感謝に満ちた彼の聴き手であるJ.ブラームスを親しく思い出してくれることを願って」とサインした自らの肖像画を贈るとともに、ヴァイオリンとオーケストラのための幻想曲を作曲することを約束したという。この約束はブラームスの死により果たされなかったが、これにより、フーベルマンはヨーロッパ音楽界の寵児となる。同年にはアメリカを演奏旅行する。
 
[[1902年]]までと[[第一次世界大戦]]での演奏中断期をはさんで、ベルリンを本拠にヨーロッパにおいて活躍していたが、[[1933年]]、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の政権獲得とともに抗議キャンペーンを開始。1920年代はベルリンを本拠にして活動していたが、ナチスの台頭に伴いドイツを離れた。
 
==総評==
[[image画像:Bronislaw_Huberman.jpg|220px|thumb]]
フーベルマンのヴァイオリン演奏は当時の並み居るヴァイオリニストの中でも特に個性的なもので、[[カール・フレッシュ]]らの正統派ヴァイオリニストから異端視されてきたが、その強烈な個性をもって訴えかける音楽は、特に東欧とドイツ圏において絶大な人気を博した。[[第二次世界大戦]]後ほどなくして亡くなったこともあり、[[ステレオ]]録音のような高音質の録音は残っていないが、[[SPレコード]]で遺された録音を通じて、今も多くのファンの心を捉えてやまない。彼のテクニックはすっきりとした香りのある音色を基調とし、飛び跳ねるような固めのスピッカート、大きく幅をとりゆっくりとしたヴィブラート、艶かしいポルタメント、フラウタンドなどを駆使して、その音楽の表情は自在に千変万化した。フーベルマンは[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]に比肩するほどのヴィルトゥオーゾであり、[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、[[エドゥアール・ラロ|ラロ]]、[[ヘンリク・ヴィエニャフスキ|ヴィエニャフスキ]]、[[パブロ・デ・サラサーテ|サラサーテ]]などの技巧曲を得意にしたのは言うまでもないが、同時に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]などの深い精神性を必要とする音楽も他の追随を許さなかった。それは弟子である[[ヘンリク・シェリング]]に引き継がれているといえる。
 
 
== 外部リンク ==
* [http://katalog.jpc-verzeichnis.de/Bronislaw%20Huberman.html](html(写真)
* [http://www.huberman.info/ Bronislaw Huberman]
 
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