「馬インフルエンザ」の版間の差分

m (誤記補正。)
== 日本における馬インフルエンザの発生 ==
=== 1971年12月 - ===
日本国内で馬インフルエンザが初めて発生したのは[[1971年]]の12月で、関東地区を中心に大流行した。このときのウィルスはウマ2型(H3N7)であった。当時は馬インフルエンザよりも馬流行性感冒の略である「馬流感」という呼び方が主流であった。
 
これは1971年[[11月19日]]に[[ニュージーランド]]より乗馬クラブが輸入した5頭の乗用馬が感染源となったものであったというのが現在の定説である。この5頭は所定の輸出検疫を終了し、[[12月3日]]に東京、青森、福島の乗馬クラブなどに導入され、この導入された場所から感染が広がったとされている。しかし、当時馬インフルエンザの清浄国であったニュージーランドの輸入馬がどのような経路で感染したかは不明であるとされている(このため、本当の感染源は[[フランス]]から輸入された種牡馬で、ニュージーランドから輸入された馬はこの種牡馬からウイルスを移されたに過ぎないという説も唱えられている<ref name="tospo">[[東京スポーツ]]・2007年[[8月19日]]付 19面</ref>)。このインフルエンザウイルスに対して当時の日本は[[処女地]]であったため、ワクチンなどの対応策も無く、日本のウマ類全体に広がり(最終的には1都1府7県(東京、大阪、青森、福島、新潟、埼玉、千葉、神奈川、 広島)の26箇所)、とりわけ東日本地区の[[競走馬]]の間では発症する馬が続出、エピデミック(地域流行)の様相を呈した。
だが関東地方での感染拡大は続き、1971年中央競馬の[[フィナーレ]]を飾るはずだった[[12月26日|26日]]の[[中山大障害]]も中止に追い込まれ、中央競馬の東京・中山の厩舍群でもその後も感染の拡大は続いた。
 
また、年末には[[新潟県競馬組合|新潟県営競馬]]の他、西日本では初となる[[福山競馬場]]、ついで[[園田競馬場]]でも集団感染が確認され、新潟県営競馬は冬季休催期間であったが、福山競馬は新春開催から全面的に中止となった。園田も開催中止を余儀なくされている
 
年が明けた1972年、中央競馬における馬インフルエンザ流行のピークは感染騒動が始まって3週間目の[[1月8日]]で、この時点で1,986頭の患畜が発生していた<ref>2007年[[8月18日]]の『[[中央競馬ワイド中継]]』で[[長岡一也]]アナが語った数字</ref>。
1972年のクラシック戦線は、牡馬で例を挙げれば[[ロングエース]]・[[ランドプリンス]]・[[タイテエム]]の『関西三強』が中心軸となるなど、インフルエンザの影響を受けなかった関西馬が全体的に優勢な状況となった。
 
この馬流感騒動は、競走馬の生産(繁殖)部門にも大きな影響をもたらした。
1971年~1972年にかけての馬インフルエンザ騒動は、競走馬の生産(繁殖)部門にも大きな影響をもたらした。<br/>例えば、メジロアサマは引退後[[種牡馬]]になったものの、無精子症に近く受胎率の低さに悩まされる事になったが、これは馬インフルエンザ治療で使用した抗生物質の副作用といわれている。その為、種付けをしても思うように受胎成績が上がらず種牡馬として廃用寸前に追い込まれたほどである。馬インフルエンザの影響でメジロアサマ同様に種牡馬及び繁殖馬失格に追い込まれた馬もいたと思われる。
 
1971年~1972年にかけての馬インフルエンザ騒動は、競走馬の生産(繁殖)部門にも大きな影響をもたらした。<br/>を挙げれば、メジロアサマは引退後[[種牡馬]]になったものの、無精子症に近く受胎率の低さに悩まされる事になったが、これは馬インフルエンザ治療で使用した抗生物質の副作用といわれている。その為、種付けをしても思うように受胎成績が上がらず種牡馬として廃用寸前に追い込まれたほどである。馬インフルエンザの影響でメジロアサマ同様に種牡馬及び繁殖馬失格に追い込まれた馬もいたと思われる。
 
=== 2007年8月 - ===
匿名利用者