「寂室元光」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Lobbyonce (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
m link
1行目:
'''寂室元光'''(じゃくしつげんこう、[[正応]]3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1290年]][[6月23日]]) - [[貞治]]6年/[[正平 (日本)|正平]]22年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]([[1367年]][[9月25日]]))は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[臨済宗]]の僧。[[美作国]]高田の出身。俗姓は[[藤原氏]]。一説によれば小野宮[[藤原実頼]]の後裔とされる。諱は元光。道号は初め鉄船と号したがのちに寂室と称する。諡号は円応国師。
 
13歳で[[山城国]]三聖寺の[[無為昭元]]に師事して[[出家]]し、のち[[鎌倉市|鎌倉]][[禅興寺]]の[[約翁徳倹]]、[[武蔵国]]金沢[[称名寺 (横浜市)|称名寺]]の[[慧雲]]、[[一山一寧]]などに師事した。鎌倉[[建仁寺]]に住したが、[[1320年]](元応2年)[[可翁宗然]]らとともに中国の[[元 (王朝)|元]]に渡り、[[天目山 (浙江省)|天目山]]の[[中峰明本]]・[[径山]]の[[元叟行端]]などに参禅し、中峰から寂室の道号を与えられた。[[1326年]]([[嘉暦]]元年)に帰国し、[[備後国]][[永徳寺]]・[[摂津国]][[福源寺]]などの住持となった。[[近江国]][[佐々木氏]]の帰依を得、[[永源寺 (東近江市)|永源寺]]の開山となった。世俗から離れ、生涯黒衣の平僧として過ごし、京都[[天龍寺]]・鎌倉[[建長寺]]などからの招きをことわり、永源寺に隠棲した。
 
{{DEFAULTSORT:しやくしつけんこう}}