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m →‎参考文献: zh:徐鍇
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鍇が特に得意としたのが兄と同じく[[篆書]]であった。文献の校訂能力に長けた彼は、兄より早く[[後漢]]代の篆書を中心とした漢字字典『[[説文解字]]』に注釈をつけ、『説文繋伝』という注釈書を作り上げた。また文字を[[四声]](アクセント)によって配列した『説文韻譜』という書も作った。これらの書は兄が校訂した『説文解字』を「大徐本」というのにならい「小徐本」と呼ばれた。
 
このように兄と並んで学者として大きく飛翔した鍇であったが、[[開宝]]8(975)年、南唐が[[北宋]]から攻撃を受け、滅亡したことによりその人生が破滅する。この時兄の[[徐鉉]]や最後の皇帝・[[李煜]]とともに北宋の首都・開封に連行されることになったのであるが、鍇は北宋に囚われるをよしとせず、憂悶した挙句北宋領内に入った途端に急死したのである。享年55であった。
 
==著書==