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'''王郎'''(おう ろう、? - [[24年]])は、[[中国]]の[[新]]代の武将、政治家。[[冀州]]趙国[[邯鄲市|邯鄲]]県の人。新末後漢初の群雄の1人で、河北に勢力を張った人物である。本名は'''王昌'''で、王郎は別名であるが、『[[後漢書]]』は王郎を多用し、一般にも王郎の名で知られている。本記事も便宜を兼ね、王郎を用いる。
 
== 事跡 ==
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[[王莽]]が新を建国した際に、偶々[[長安]]では前漢の[[成帝 (漢)|成帝]]の子である子輿を自称して誅殺された者がいたが、王郎はこの事件を利用し、自分こそが本物の子輿であると詐称する。あるとき王郎は、かねてから親交のあった平干繆王(趙繆王)元<ref><small>劉元は、正確には平干繆王である。しかし劉元の父である平干王立(劉立)は趙敬粛王彭祖(劉彭祖)の末子にあたることから、後世に趙繆王と呼ばれた模様である。</ref>の子である[[劉林]]に対して、自分は成帝の子の劉子輿であり、幼い頃は蜀の地に隠れていたが、天機あるべしとして燕・趙にやってきた、と語った。劉林はこれを信じ、趙の豪族(「大豪」)である李育・張参と共に、王郎を皇帝に擁立する計画を練った。
 
ただこの頃には、[[赤眉軍]]が[[黄河]]を渡って北進してくるとの噂が飛び交っていた。[[更始 (漢)|更始]]1年([[23年]])10月、[[更始帝]](劉玄)の命を受けて河北平定にやってきた更始政権の破虜将軍、行大司馬事劉秀(後の[[光武帝]])が邯鄲を訪れ、やはり劉林と面会した。劉林は河北に脅威を与える赤眉軍を堤防を切って殲滅する策を劉秀に提案するが、劉秀はそれに返答をせず、邯鄲を離れてさらに北方の[[真定]]へ向けて進行した。
 
そこで劉林は、王郎擁立を最終的に決断したと見られる。劉林らは赤眉軍が来るとの伝聞を更に煽り<ref>実際には、少なくとも[[樊崇]]ら赤眉軍の主力部隊は、黄河を渡ってくることはなかった。</small></ref>、王郎を擁立する正統性としたところ、多くの人はそれを信じた。