「墨俣川の戦い」の版間の差分

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|commander1=[[源行家]]
|commander2=[[平重衡]]
|strength1=30,000騎(平家物語)
|strength2=6,000騎(平家物語)<br />5,000余騎(玉葉)
|strength2=
|casualties1=首級390名([[義円吉記]]らが討ち死に。
|casualties2=不明
|}}
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== 経過 ==
平氏政権前年の[[治承]]4年([[1180年]])10月の[[富士川の戦い]]で[[源頼朝]]の関東政権軍に敗れたが、再度、関東政権頼朝軍を追討するため、治承5年([[1181年]])4月、[[平重衡]]を将とする軍を[[東国]]へ派遣した。それに対して、源行家の軍勢が墨俣川東岸に陣を敷き待ちかまえた。行家は、関東政権鎌倉の頼朝距離を置いた独自の勢力となることを企図しており、いわば関東政権鎌倉へ恩を売るために平氏軍を待ち受ける役割を負ったとされている。両軍は、墨俣川を挟んで対峙したが、行家軍は夜間の奇襲を企てて渡河した。しかし、平氏軍は濡れている兵士が敵であることに気付き、行家の奇襲はすぐに見破られ、行家軍は大敗した。この時、行家の軍に加わっていた[[義円|源義円]](頼朝の異母弟)、同[[泉重光|重光]]([[尾張源氏]])、同[[源頼元|頼元]]、同[[源頼康|頼康]](ともに[[大和源氏]])といった源氏一門の諸将が戦死、行家の次男[[源行頼|行頼]]が敵軍の捕虜となっている。
 
行家はその後、熱田に篭ったがそこも打ち破られて[[三河国|三河]]の[[矢作川]]まで撤退したが、平氏軍はさらに追撃した。しかし、東から源氏の大軍がくるという噂が流れたため、平氏はそれ以上進撃せずに撤退した。
 
合戦の結果は行家率いる源氏軍の大敗北であり、敗因としては行家と義円で先陣を争った指揮系統の乱れ、また源氏方が低湿地を背後にして戦ったため機敏な退却ができなかった事などが損害を多くした原因と考えられる。行家は矢作川を突破されたのち行方をくらませた。
 
平氏があくまで都を中心とした専守防衛体制を堅持した事により、平氏の[[西国]]支配、[[源氏]]の[[東国]]支配、[[奥州藤原氏]]の東北支配という勢力分布が一層明確なものとなった。
 
== 関連項目 ==
*[[日本の合戦一覧]]