「カジミェシュ4世 (ポーランド王)」の版間の差分

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カジミェシュは1447年、兄ヴワディスワフ3世の死後3年間にわたり空位だったポーランド王位を継承し、1454年に[[ハプスブルク家]]の[[エリーザベト・フォン・エスターライヒ(カジミエシュ4世妃)|エリーザベト]]と結婚した。彼女は[[神聖ローマ皇帝]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]と、[[ボヘミア王国|ボヘミア王家]]及び[[ハンガリー王国|ハンガリー王家]]の女子相続人である[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク]]との間に遺児だが、皇帝位は彼女の一族の分家筋にあたる[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の手中にあった。この結婚は[[ヤギェウォ朝]]にボヘミア及びハンガリーの王位要求権を強化させることを狙ったものだが、同時にカジミェシュは皇帝位をめぐる争いに否応なく引き込まれることになった。
 
同じ1454年、カジミェシュは[[ドイツ騎士団]]に対抗する[[プロイセン連合]]との同盟を結び、併合によって[[プロイセン]]をポーランド領に組み込むことが決まった。しかしプロイセン連合がドイツ騎士団への反乱を開始すると、騎士団は予想以上に頑強な抵抗を見せ、[[十三年戦争]]に発展した。カジミェシュとプロイセン連合はドイツ騎士団を撃破し、その拠点[[マルボルク城]]を陥落させた。[[トルンの和約(1466年)|第二次トルンの和約]]でドイツ騎士団は、[[ポーランド王領プロイセン]]に対するポーランドの[[主権]]、[[プロイセン公国]]に対するポーランドの宗主権を認めさせるに至った。1457年にエリーザベトの弟[[ラディスラウス・ポストゥムス]](ハンガリー及びボヘミア王)が没すると、カジミミェシュ夫妻の関心はラディスラウスの保っていた王冠を掌中にすることへと次第に移っていった。
 
== 子女 ==
*ヴワディスワフ…[[ウラースロー2世]](ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー)として母方の血統から[[ボヘミア王国|ボヘミア]]及び[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位を継承した。
*[[ヤドヴィガ(下バイエルン=ランツフート公妃)|ヤドヴィガ]]…[[ヴィッテルスバッハ家]]の下バイエルン=ランツフート公[[ゲオルク(下バイエルン=ランツフート公)|ゲオルク]]と結婚した。クラクフで代理人による結婚の交渉が行われ、1475年に[[バイエルン]]で「[[ランツフートの結婚式]]」と呼ばれる壮麗な[[ページェント]]を伴う披露宴が行われて、これが祝祭として定着した。
*カジミェシュ…[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の娘[[クニグンデ・フォン・エスターライヒ|クニグンデ]]との結婚縁談決められあったが、これを断って宗教的な生活を選び、[[聖カジミエシュ]]として[[リトアニア]]の[[守護聖人]]となった。
*[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]…ポーランド王位を継承し、リトアニアを統治していた[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]と[[ジグムント1世]]の二人の弟に引き継がれた。
*ゾフィア…ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯[[フリードリヒ5世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ5世]]と結婚し、初代[[プロイセン公]][[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト]]の母となった。