「駿府藩」の版間の差分

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'''駿府藩'''(すんぷはん)は、[[駿府城]](現在の[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]])を中心に[[静岡県]]の[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・[[愛知県]]の[[三河国|三河]]の地域に[[江戸時代]]前期と[[明治]]初期に短期間だけ存在した[[藩]]である。なお、明治2年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[1869年]][[9月12日]])には'''静岡藩'''(しずおかはん)と改称されている。
 
== 略歴 ==
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[[寛永]]2年([[1625年]])1月11日、第3代将軍・[[徳川家光]]の弟・[[徳川忠長]]が駿河・遠江・甲斐などに50万石で封じられたことから、駿府藩が再立藩される。忠長は将軍後継をめぐって家光と争った経緯から不仲であり、さらに寛永7年([[1630年]])には[[浅間神社]]の神獣とされる猿を捕殺したり、寛永8年([[1631年]])には家臣や侍女を多数惨殺したりするなどの乱行が目立ったことから、5月29日に発狂したとして[[上野国|上野]][[高崎藩]]に蟄居の身とされ、父の[[徳川秀忠]]没後の寛永9年([[1632年]])10月20日には兄によって[[改易]]された。このとき、忠長の家臣の多くも連座により改易されている。そして寛永10年([[1633年]])12月6日、忠長は高崎で自害した。
 
忠長改易後、駿府藩は廃藩となり、以後は[[天領]]として[[江戸幕府]]直属の[[旗本]]が[[駿府城代]]として赴任する駿河城番時代が続いた。
 
=== 明治時代 ===