「ヤン1世 (ポーランド王)」の版間の差分

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| 王室歌 =
| 父親 = [[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]
| 母親 = [[エリーザベト・フォン・エスターライヒ (カジミエシュ4世妃)|エリーザベト・フォン・エスターライヒ]]
}}
'''ヤン1世オルブラフト'''([[ポーランド語]]表記:Jan I Olbracht(Albrecht) / [[リトアニア語]]表記:Jonas Albrechtas , [[1459年]][[12月27日]] - [[1501年]][[6月17日]])は[[ポーランド王国|ポーランド王]]([[1492年]] - 1501年)。[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]の三男、母は[[ローマ王]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]の娘[[エリーザベト・フォン・エスターライヒ(カジミエシュ4世妃)|エリーザベト]]。[[ボヘミア王国|ボヘミア王]]及び[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]である[[ウラースロー2世]](ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー)の弟。
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ヤン・オルブラフトはポーランド皇太子として、コペルズティンの戦い(1487年)で[[タタール]]に対し華々しい勝利を収めた。1490年、ハンガリーの貴族階級はラコーシュの議会においてヤンを[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]と宣言したが、この決定は兄の[[ボヘミア王国|ボヘミア王]][[ウラースロー2世]]によって退けられた。1492年、父の死によりポーランド王位を継承した。一方、弟[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]の[[リトアニア大公国|リトアニア大公]]位継承に伴うポーランド国家財政からの出費は、地方の下級貴族([[シュラフタ]])の牙城である[[セイミク]]のような地方議会の激しい敵意を招き、補助金を国王による彼らへの追従姿勢によって捻出する傾向が強まった。
 
ヤン・オルブラフトは[[オスマン帝国]]に対峙するキリスト教世界の覇者としての地位を望み、また時代状況は彼の野心に味方していた。兄ウラースロー2世はハンガリーとボヘミアの国王として[[中欧]]に大きな影響力を振るっており、ライバルの[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が1492年に[[モスクワ大公]][[イヴァン3世]]と結んだ同盟に匹敵する同盟体制の構築を目論んでいた。ヤン・オルブラフト本人も、[[モルドヴァ公国|モルダヴィア公国]]を属国としていたために、トルコ人による攻撃の脅威にさらされていた。1494年に[[レヴォチャ]]で結ばれた盟約では、ポーランド王、ハンガリー王および[[ブランデンブルク選帝侯]][[ヨハン・ツィーツェロ]]の3人の君主が対トルコ遠征に関する詳細を詰め、ヤンの支援を仰ごうとしていたモルダヴィアの[[ホスポダル]]・[[シュテファン3世 (モルドヴァ公)|シュテファン3世]]もこの会談に協力した。
 
1496年、戦役のためにヤン・オルブラフトは大きな代償を払いつつポーランド内から80000人の兵士をかき集めたが、軍事計画はシュテファン3世のモルダヴィア軍による[[ガリツィア]]への突然の侵攻によって瓦解した。シュテファンが反旗を翻した理由は詳らかでないが、ヤン・オルブラフトが弟の[[ジグムント1世|ジグムント]]にモルダヴィア公位を与える気でいるという、ハンガリーから流れた誤認の情報を信じたためと思われる。理由はともかく、敵対したモルダヴィアとポーランドは戦争に突入し、モルダヴィア領内に入ったポーランド軍は[[首都]][[スチャヴァ]]の包囲に失敗した後、[[コズミンの森の戦い]]で決定的な敗退を喫した。この敗戦の原因の一つは従軍したシュラフタ達の不服従による指揮系統の乱れにあったと考えられ、ポーランド帰国後、国王は数百人のシュラフタの所領を没収している。ただし、国王は治世末期には人気を回復している。
[[Image:Gradual of King John Albert.jpg|thumb|right|180px|国王ヤン1世の[[グラドゥアーレ]]]]
[[ドイツ騎士団]]の新総長となった[[フリードリヒ・フォン・ザクセン (ドイツ騎士団長)|フリードリヒ・フォン・ザクセン]]がポーランド王への忠誠を拒むと、ヤン・オルブラフトは彼に無理やり服従を強要した。騎士団に更なる迫害を加えようとした国王の決意は、1501年にヤン1世自身が急死したことで挫折した。
 
== 関連項目 ==