「北山一揆」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Arawodas (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Arawodas (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
2行目:
 
===天正の一揆===
天正14年([[1586年]])8月、奥熊野の地侍たちが蜂起した。蜂起の原因としては[[太閤検地]]への反発が挙げられるが、確実ではない。[[紀伊国|紀伊]]の領主であった[[豊臣秀長]]は討伐軍を送り、同年10月までにはほぼ制圧した。だが大雪のため、一揆衆への処罰は中途半端なものにとどまった。一揆衆は降伏して赦免を乞うたが、秀長はこれを許さず徹底的に成敗すべく翌年の出兵を命じる。[[九州征伐]]のため延期された懲罰出兵は同16年([[1588年]])9月に始まり、翌17年([[1589年]])5月には処罰が遂行されたという<ref>[[藤堂高虎]]は、一揆鎮圧の拠点として天正17年に赤木城(現熊野市紀和町)を築城した。また高虎によって、多数の農民が田平子峠で斬首された(『日本城郭大系』第10巻([[新人物往来社]]、1980年)P187-188)。</ref>
 
この一揆鎮圧では紀伊湊城主吉川平介が活躍し、熊野地方の統治にも深く関わった。平介は懲罰出兵さなかの天正16年12月に秀長の命令で熊野の木材二万余本を伐採して[[大坂]]で販売したが、この時熊野統治において不正を働き私腹を肥やしていたことが発覚して、激怒した[[豊臣秀吉]]によって[[大和国|大和]][[西大寺 (奈良市)|西大寺]]で処刑され、首は洛中にさらされた。秀吉の怒りは弟の秀長にも向けられ、秀長は詫びを入れたが容易に許されなかったという。当時畿内は建築ブームだったため、熊野の良質の木材は高く売れ、秀長も相当の利益を挙げていたようである。
 
===慶長の一揆===
慶長19年([[1614年]]年)12月、[[浅野長晟]]の統治(特に慶長検地に伴う家改め(戸籍による身分確定))に不満を持つ北山の地侍・[[山伏]]らが、[[大坂冬の陣]]への出兵で浅野氏の兵力が手薄になったのを機に蜂起した。一揆勢は南下して[[新宮城]]を攻めようとして成川深谷(現三重県[[紀宝町]])まで進軍したが敗退し、大沼村(現[[北山村]])の戦いで潰滅した。翌年1月には残党狩りが行われ、田平子峠(現三重県[[熊野市]]・旧[[紀和町]])で処刑が行われたという<ref>[[昭和]]43年([[1968年]])、田平子峠に北山一揆の犠牲者を追悼する供養塔が建立された。</ref>。処刑者は363名を数えた。
 
浅野側は、慶長の北山一揆と、翌20年4月に起こる[[日高郡|日高]]・[[有田郡|有田]]・[[名草郡]]の一揆を合わせて'''紀伊国一揆'''と称した。