「コンスタンディノス・ミツォタキス」の版間の差分

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ミツォタキスは政府の財政規模を小さくし、市民サービスの改善に取り組んだ。外交ではパパンドレウ時代に関係が冷え込んだ[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との信頼関係の構築につとめ、1990年にはギリシャの首相として26年ぶりにアメリカを訪問した。[[北大西洋条約機構|NATO]]への再加入をはたし、[[トルコ]]との関係改善にも取り組んだ。
 
パパンドレウは政治家を裁く特別裁判Eidiko Dikastirioでかろうじて無罪となった。パパンドレウは、善隣外交を展開するミツォタキスが[[マケドニア共和国]]、[[キプロス]]問題に関して弱腰すぎると批判し、党勢の回復を狙った。旧[[ユーゴスラビア]]のマケドニア共和国の名称を巡る問題に対し、国民は大きな関心を寄せ、1993年の選挙ではパパンドレウ率いるPASOKが勝利した。ミツォタキスは党首を辞任した。
 
2004年3月の選挙を機に彼は政界を引退した。息子のキリアコスは国会議員、娘の[[ドラ・バコヤンニ]]は[[アテネ]]市長として将来のND党首にも期待されている。現在ミツォタキスはクレタ島の考古遺産の保護に取り組んでいる。