「大国実頼」の版間の差分

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天正14年([[1586年]])、[[新発田重家の乱]]では[[新発田重家]]討伐に参陣し[[新潟城]]を焼打ちする。[[豊臣秀吉]]の[[聚楽第]]新築のときには、上杉家の使者を勤めた。この頃は頻繁に上洛し、[[木戸寿三]]と共に連歌会に多く参加した。天正19年([[1591年]])には連歌師[[里村紹巴]]の催す[[連歌]]会に度々参加し、実頼は『米府侍組由緒』には「能書、連歌の上手」と評されている。
 
[[慶長]]3年([[1598年]])、上杉景勝の会津移封に付き従い[[鴫山城|南山城]]代とし2万1000石を与えられた。そして慶長5年([[1600年]])に景勝が[[徳川家康]]と対立して会津に[[神指城]]を築城しようとしたとき、兄の兼続と共に普請奉行を務めて功を挙げている。
 
[[関ヶ原の合戦]]後、[[羽前]]高畑城7000石の城代となったが城には移らず、上京して伏見に滞留した。慶長9年([[1604年]])、実兄[[直江兼続]]と[[本多政重]]との養子縁組に反対し、政重の迎えに上京した使者を[[伏見宿]]にて殺害し[[高野山]]に逃れた。以後、高野山に隠遁していたが兼続の死後、米沢北郊の中小松村に戻り[[元和 (日本)|元和]]8年(1622年)に死去。享年61。