「カラ・ムスタファ・パシャ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
10行目:
[[8月]]初頭に[[ウィーン]]に到着した[[オスマン帝国軍|オスマン軍]]は直ちにウィーンを包囲するが、堅固な城塞と籠城軍の抵抗の前に攻めあぐね、包囲は一月に及んだ。[[9月12日]]、オーストリアが要請した[[ポーランド王国|ポーランド]]、[[ドイツ]]諸侯の援軍7万が到着。この時、ウィーンは陥落目前になっていたが、長引く包囲と長大な補給線にオスマン軍は激しく疲弊していた。また、カラ・ムスタファの強権に諸侯や配下の兵は不満を募らせており、内部は動揺していた。このことを見抜いたポーランド軍の[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]は、翌日に予定されていた攻撃を独断で早め、その日の夕刻に突撃を開始した。事前に偵察を放ってオスマン軍の布陣を正確に把握していたヤン3世はカラ・ムスタファのいる本陣めがけて突進、オスマン軍は大混乱となって包囲陣は崩壊、かくしてウィーン包囲は失敗に終わったとされる。
 
ウィーンでは手痛い敗北を喫したカラ・ムスタファだったが、直ちに[[ベオグラード]]で敗軍を再結集し、迎撃の態勢を整えた。ところが、敗戦の報を聞いた政敵が[[メフメト4世]]に讒言。ベオグラードにはカラ・ムスタファの処刑を命ずる[[勅令]]が届けられ、[[12月25日]]、同地で処刑された。弓の弦で[[首]]め広されたのち、[[遺骸]]の首は切断され、皮を剥がれ、[[剥製]]にされてから、メフメト4世の許に届けられた。さらに彼の首級は、幾度もの戦闘の間にオーストリア軍の手に渡ったとされる。
 
カラ・ムスタファの死後、指揮官を失ったオスマン軍は同盟軍の前に敗戦を重ねた。さらに[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]と[[ロシア帝国|ロシア]]が同盟側に加わり、16年に及ぶ戦争の末[[カルロヴィッツ条約]]と[[コンスタンチノープル条約]]が結ばれ、オスマン帝国は[[ハンガリー]]、[[クロアチア]]、[[ポドリア]]、[[アゾフ]]を失った。オスマン帝国にとってこれほどまで大規模な領土の喪失は初めてであり、ここからオスマン帝国の衰退が始まる。