「ジェルメーヌ・タイユフェール」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[イル・ド・フランス]]の[[サンモールフォッセ]]出身。本名はマルセル・タイユフェス(''Marcelle Taillefesse'')だが、横暴で家庭を顧みない父親への反感から、タイユフェールという姓に改めた。修道院付きの学校に学んだ母親から、[[ピアノ]]などの教養を学んで楽才を発揮し、[[パリ音楽院]]への進学を許される。音楽院では[[ダリウス・ミヨー]]や[[ジョルジュ・オーリック]]、[[アルテュール・オネゲル]]と出逢い、親交を結んだ。いくつかの学科で首席になり、18歳の時ハープ科の助教授カロリーヌ・タルデューのために、《タルデュー夫人のためのハープ小曲集 ''Petit livre de harpe de Madame Tardieu'' 》を作曲。これは現存する最初の作品のひとつと言われている。早くから優等生ぶりを発揮する一方、ピアノ科の試験の最中に院長[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]に気押され、無意識に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]を移調して演奏して(フォーレを含む)試験官を驚かせたとか、オルガン科で[[即興演奏]]の学習中に、「[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の様式を」選んで教授の逆鱗に触れたなど、いくつかの武勇伝を残している。またこの頃、無教養で野卑な父親から解放されたことの反動で、音楽以外の勉強もしており、[[気球]]の運転操縦も学んでいる。
 
友人たちとともに[[モンマルトル]]や[[モンパルナス]]の芸術家集団と親交を結び、その中で知り合った彫刻家の[[エマニュエル・サントール]]は、後にタイユフェールの妹と結婚した。「フランス六人組」の原型が出来上がったのも、モンマルトルの友人の画家のアトリエにおいてであった。ジャン・コクトーの宣言文『牡鶏とアルルカン』が出版されると、音楽評論家で作曲家のアンリ・コレの批評によって、「フランス六人組」という名称が与えられ、一躍グループを有名にした。タイユフェールは「六人組」の紅一点のメンバーである。