「ピエール・ブーレーズ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Shikine (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
10行目:
 
フランス国立音響音楽研究所[[IRCAM]]の創立者で初代所長(現在は名誉総裁)。[[1976年]]、[[コレージュ・ド・フランス]]教授に選出。現在はフリーで活躍。
 
[[1989年]]、第一回[[高松宮殿下記念世界文化賞]]・音楽部門を受賞した。
 
 
== 作品 ==
21 ⟶ 24行目:
* [[1954年]]に現代音楽アンサンブル[[ドメーヌ・ミュジカル]]を創設。
* [[1958年]]より[[ドイツ]]の[[バーデン・バーデン]]にある[[南西ドイツ放送交響楽団]]を、病気の[[ハンス・ロスバウト]]の代役として指揮し本格的に活動を開始。この頃からバーデン・バーデンが気に入り居住するようになる。
* [[1963年]]、フランスで[[アルバン・ベルグ]]の「ヴォツェック」を指揮者として初演した。
* [[1967年]]には、健康に陰りが見え始めた[[ジョージ・セル]]をカバーする目的で[[クリーヴランド管弦楽団]]の首席客演指揮者に就任。
* 同年、[[大阪国際フェスティバル]](バイロイト・ワーグナー・フェスティバル)で初来日。『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』(トリスタン:[[ヴォルフガング・ヴィントガッセン]]、イゾルデ:[[ビルギット・ニルソン]]、マルケ王:[[ハンス・ホッター]]、管弦楽:[[NHK交響楽団]])を指揮した。
28 ⟶ 32行目:
* [[1976年]]から[[1980年]]には[[バイロイト音楽祭]]に出演。[[パトリス・シェロー]]演出の『[[ニーベルングの指環]]』は賛否両論を巻き起こした。
* その最中の[[1978年]]にIRCAMと[[アンサンブル・アンテルコンタンポラン]]創設のために指揮活動を自ら激減させた。
* [[1979年]]、パリのオペラ座でアルバン・ベルグの「ルル」を初演。
* [[1991年]]にIRCAM所長を辞してからは再び指揮活動を増やした。
* [[1992年]]には、かつて[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]存命時には、[[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]や[[ニコラウス・アーノンクール|アーノンクール]]ら等と同様、政治的な理由から遠ざけられた[[ザルツブルク音楽祭]]に初出演、アンサンブル・アンテルコンタンポランと[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮した。これ以降、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]や[[シカゴ交響楽団]]・[[クリーブランド管弦楽団]]の定期演奏会にも招かれた。また、[[ドイツ・グラモフォン]]との録音も増えた。