「ペルティナクス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
VolkovBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: scn:Pirtinaci
m style
1行目:
[[Image:PertinaxSest.jpg|200px|thumb|right|ペルティナクスの硬貨]]
'''ペルティナクス'''('''Pertinax'''(Pertinax, [[126年]][[8月1日]] - [[193年]][[3月28日]])は、[[ローマ帝国]]の皇帝(在位:[[193年]][[1月1日]] - [[193年]][[3月28日]])。本名は'''プブリウス・ヘルヴィウス・ペルティナクス'''('''Publius(Publius Helvius Pertinax''')Pertinax)
 
== 生涯 ==
126年に北[[イタリア]]の[[リグリア]]で生まれる。父親は[[解放奴隷]]であった。最初は教師であったが、軍隊に入り出世して、[[マルクス・アウレリウス]]帝のもと[[元老院]]入りし、 171年に[[ラエティア]]総督、174年か175年には[[執政官|コンスル]]になる。その後[[シリア属州|シリア]]、上下[[モエシア]]、[[ダキア]]の総督を歴任する。[[コンモドゥス]]帝の治世の初期の182年に公職を離れるが、185年に復帰。[[ブリタンニア]]での反乱を鎮圧、192年には首都長官と2度目のコンスルに就任する。

192年12月31日にコンモドゥス帝暗殺の首謀者である侍従長ラエトゥス、親衛隊長エレクトゥスはペルティナクスの家へ向かい、帝位に就くように願い出た。ペルティナクスは驚きながらも、2人の説得により帝位に就くことになる。そのために親衛隊に12,000[[セステルティウス]]を支払い、元老院の承認を受け、帝位へと就いた。

高潔な性格であったためコンモドゥスの行った悪徳や暴政の跡を修復しようと心がけたが、その改革は性急で厳格なものであった。財政再建、悪税の廃止、国家経費の削減、さらに親衛隊の軍規を正そうとした。その結果、不満を持った親衛隊により1月と3月に陰謀が企てられる。これは失敗に終わったが、さらにその後3月28日に陰謀が成功し、ペルティナクスは暗殺された。
 
==関連項目==