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'''秋月 種任'''(あきづき たねただ、[[寛政]]3年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]([[1791年]][[10月12日]]) - [[安政]]3年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]([[1856年]][[7月11日]]))は、[[日向国|日向]][[高鍋藩]]の第9代藩主。父は第8代藩主・[[秋月種徳]]。母は側室の岩崎氏(妙仙院)。正室は[[池田治道]]の娘。継室は[[脇坂安董]]の娘・雅子。子に[[秋月種殷|種殷]]、[[秋月種樹|種樹]]、娘([[一柳末延]]室)、娘([[一柳頼紹]]室)、娘([[大関増儀]]室)。官位は従五位下、[[筑前国|筑前]]守、[[佐渡国|佐渡]]守
 
第8代藩主・[[秋月種徳]]の次男。母は側室岩崎氏(妙仙院)。正室は[[池田治道]]の娘。継室は[[脇坂安董]]の娘・雅子。子に[[秋月種殷]](長男)、[[秋月種樹]](三男)、娘([[一柳末延]]正室)、娘([[一柳頼紹]]正室)、娘([[大関増儀]]正室)。官位は従五位下、[[筑前国|筑前]]守、[[佐渡国|佐渡]]守。幼名は栄三郎。
寛政3年(1791年)9月15日生まれ。幼名は栄三郎。父と正室との間に男児がなかったため、側室との間に生まれた種任が世子となり、[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])12月の父の死去により、翌年2月17日に後を継いで藩主となった。藩財政を再建するために藩政改革を行なったが、効果はなかった。[[天保]]14年([[1843年]])8月21日、子の[[秋月種殷]]に家督を譲って隠居し、安政3年(1856年)6月10日に66歳で死去した。法号:俊徳院殿寛道宗裕大居士。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]南麻布の光林寺。
 
寛政3年(1791年)9月15日生まれ。幼名は栄三郎。父と正室との間に男児がなかったため、側室間に生まれた子である種任が世子となり、る。[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])12月の父の死去により、翌年2月17日に後を継いで藩主となった。藩財政を再建するために藩政改革を行なったが、効果はなかった。[[天保]]14年([[1843年]])8月21日、子の[[秋月長男・種殷]]に家督を譲って隠居し、安政3年(1856年)6月10日に66歳で死去した。法号:俊徳院殿寛道宗裕大居士。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]南麻布の光林寺。
 
{{先代次代|[[秋月氏|秋月氏歴代当主]]|1808 - 1843|[[秋月種茂]]|[[秋月種殷]]}}