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'''秋月 種殷'''(あきづき たねとみ、[[文化 (元号)|文化]]14年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]](新暦 [[1817年]][[7月22日]]) - [[明治]]7年([[1874年]])[[3月18日]])は、[[幕末]]期の大名。[[日向国]][[高鍋藩]]第10代最後の[[高鍋藩|高鍋藩主]]である。治世は30年に及び、教育の振興に尽力した。父は先代藩主の[[秋月種任|種任]]。正室は[[黒田長韶]]の娘、継室は[[上杉斉定]]の娘。子に娘([[黒田長徳]]室)
 
9代藩主・[[秋月種任]]の長男。母は[[脇坂安董]]の娘。正室は[[黒田長韶]]の娘、継室は[[上杉斉定]]の娘。子に娘([[黒田長徳]]正室)。官位は[[長門]]守。
彼が当主の時に[[廃藩置県]]が行われ、高鍋藩は終焉を迎える。弟の[[秋月種樹]]は、[[安井息軒]]らに師事し、江戸幕府の学問書奉行となり将軍[[徳川家茂]]の侍読を務めている。明治維新後は[[明治天皇]]の侍読、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員等、要職を歴任している。詩文や書画に造詣があり、多くの書画を現在に伝えている。
 
彼が当主の時に[[廃藩置県]]が行われ、高鍋藩は終焉を迎える。男子がなかったため、養子としていた弟の[[秋月種樹]]は[[安井息軒]]らに師事し、江戸幕府の学問書奉行となり将軍[[徳川家茂]]の侍読を務めている。明治維新後は[[明治天皇]]の侍読、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員等、要職を歴任している。詩文や書画に造詣があり、多くの書画を現在に伝えている。明治7年(1874年)、58歳で没した