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王凌は統治能力に非常に優れており、兗州・青州・豫州・揚州の[[刺史]]になったが、人民は王凌の統治を絶賛している。王凌は[[司空]]・[[太尉]]になっている。
 
[[249年]]、甥の[[令狐愚]]と共に魏の[[皇帝]]・[[曹芳]]の廃位を企み、楚王[[曹彪]]の擁立を企てた。曹芳が年少で頼りなく、[[司馬懿]]のような権臣が勢力を振るうので、年長の曹彪に代えようとしたのである。長子の王広が激しく諫めたが、王凌は取り合わなかった。令狐愚の死後も計画を進めたが、[[251年]]、司馬懿に察知されて失敗し、降伏した。その後、司馬懿が自分を誅殺するつもりであることを悟り、護送の途中[[賈逵 (魏)|賈逵]]を祀った廟の前を通りかかると、「梁道(賈逵の字)どの、この王凌はもとより魏の社稷に忠実な男です。あなたに神格があるのなら、ご存知のはずです」と叫んだという。そして、都に護送する途中で王凌は'''項'''という所で服毒自殺した。齢80。やがて、計画を諫めた長子の王広らと孫曾孫らを含めて、王凌の三族は[[処刑]]された。
 
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書王淩伝の注に引く『[[世語]]』によると、王凌の妹は、[[郭淮]]の妻である。彼女もまた兄の王凌に連座して誅殺されかけたが、彼女の子である[[郭統]]ら五人の息子が涙を流しながら地面に額を叩いて血を流して、生母の助命を哀願していたという。事の重大さを覚った郭淮は司馬懿に「五人の息子は母を憐み、もしこの母に死を賜れば彼等はその後を追うことでしょう。五人の息子を亡くせば、(私である)淮もすぐに妻の後を追うことでしょう」と言上したため、こうして彼女は助命されたという。