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'''伊東 祐久'''(いとう すけひさ、[[1609年]][[8月9日]]([[慶長]]14年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[1657年]][[12月2日]]([[明暦]]3年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]))は、[[日向国|日向]][[飫肥藩]]の第3代藩主。父は第2代藩主・[[伊東祐慶]]。母は大田原氏。正室は[[尾張藩]]重臣・[[滝川法直]]の娘。子に[[伊東祐由|祐由]]、[[伊東祐春|祐春]]([[交代寄合]]伊東氏祖)、[[伊東祐実|祐実]]。官位は従五位下、[[大和国|大和]]守
 
第2代藩主・[[伊東祐慶]]の長男。母は大田原氏。正室は[[尾張藩]]重臣・[[滝川法直]]の娘。子に[[伊東祐由]](長男)、[[伊東祐春]](三男、[[交代寄合]]伊東氏祖)、[[伊東祐実]](四男)。官位は従五位下、[[大和国|大和]]守。幼名は鶴千代。藤松。
慶長14年(1609年)7月10日、[[京都]]において生まれた。幼名は鶴千代。藤松。父の死により、[[寛永]]13年([[1636年]])5月29日に跡を継いで藩主となる。このとき、弟の[[伊東祐豊]](主膳正)に3000石を分与した。翌年の[[島原の乱]]では2500人を率いて出陣し、武功を挙げた。藩政においては新田開発、治水工事、防波堤の建設に尽力し、藩政の基礎固めに務めた。明暦3年(1657年)10月27日、[[江戸]]藩邸にて49歳で死去。
 
慶長14年(1609年)7月10日、[[京都]]において生まれた。幼名は鶴千代。藤松。父の死により、[[寛永]]13年([[1636年]])5月29日、父の死より跡を継いで藩主となる。このとき、弟の[[伊東祐豊]](主膳正)に3000石を分与した。翌年の[[島原の乱]]では2500人を率いて出陣し、武功を挙げた。藩政においては新田開発、治水工事、防波堤の建設に尽力し、藩政の基礎固めに務めた。明暦3年(1657年)10月27日、[[江戸]]藩邸にて49歳で死去。後を長男・祐由が継いだ