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'''ウィリアム・ロード'''(William Laud、[[1573年]][[10月7日]] - [[1645年]][[1月10日]])は、[[17世紀]][[イングランド]]の[[聖職者]]。[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]側近で[[清教徒革命]]前夜に処刑された。
 
[[レディング]]の織物業者の子として生まれ、[[オックスフォード大学]]で[[神学]]を学んだ後に[[アルミニウス派]][[神学者]]として知られた[[ロチェスター主教]][[リチャード・ニール]]を尊敬して後にその補佐を務めた。[[ジョージ・ヴィリアーズ|バッキンガム公]]から崇敬を受けて、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]にロードを推挙したが王は彼の思想を問題として登用しなかった。次のチャールズ1世は、ロードを取り立てて[[1927年]]に[[枢密院|枢密顧問官]]、[[1628年]]に[[ロンドン主教]]、[[1630年]]にオックスフォード大学総長兼務、[[1633年]]に[[カンタベリー大主教]]と順調に出世してチャールズ1世の宗教・教育顧問として重きをなし、[[ストラフォード伯爵トマス・ウェントワース|ストラフォード伯]]とともにバッキンガム公亡き後のチャールズ1世の片腕として国政にも深く関与した。
 
ロードは[[イングランド国教会|国教会]]の改革と宗教統一を持論としていた。チャールズ1世の許しを得たロードは、[[祈祷書]]の遵守と礼拝の統一、聖職者の統制政策を推進した。更に世俗の問題に対する聖職者の積極的な関与を推進し、その見解の遵守を国民に指示した。これに対して[[清教徒]]らは激しく抵抗したが、[[高等宗務官裁判所]]や[[星室庁裁判所]]を舞台として徹底的に弾圧した。だが、余りの強硬な政策に清教徒以外の[[貴族]]や[[ジェントリー]]の反感も広がっていった。加えて[[1638年]]にロードの意見を容れたチャールズ1世によって[[スコットランド]][[長老派]]に国教会の祈祷書を強要したことから、翌年[[主教戦争]]が勃発した。このため、[[1640年]]から始まった[[長期議会]]ではロードの戦争責任を追及する動きが高まり、反逆罪によって弾劾されて逮捕・投獄された。チャールズ1世はロードを解放しようとしたが議会はこれを拒絶して双方の対立は深刻化した。やがて、[[1644年]]にロードに対する裁判が開始されたが、彼を有罪とする決定的な証拠に欠けていた議会側はロードとストラフォード伯を生かしておいた場合に国王と彼らが議会側に弾圧を加えてくることを危惧して、[[私権剥奪法]]を制定して両者を国家に害をなす人物であると認定してそれを理由に処刑を決定した。