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== 略歴 ==
[[警察官]]を経験したのちプロレスに転向し、ライトヘビー級の[[プロレスラー]]として活躍。レフェリー転向後は[[ロサンゼルス]]地区で活躍。軽快かつ厳格なレフェリングと、何より常に赤い[[靴|シューズ]]を履いて試合に臨むのが特徴である。
 
日本にも頻繁に来日登場している。初来日は1972年に行われた[[日本プロレス]]の第14回[[ワールドリーグ戦]]である。1973年の日本プロレス崩壊後主に[[新日本プロレス]]でレフェリングを行った。[[力道山]]対[[フレッド・ブラッシー]]のWWA世界ヘビー級選手権や、1975年の[[アントニオ猪木]]対[[ビル・ロビンソン]]の[[NWF]]ヘビー級選手権など、日本で行われた世界タイトルマッチ数多く裁いた。
 
アメリカで行われた力道山VSブラッシーのWWA世界戦では、力道山の流血を強引にレフェリーストップ・力道山王座転落に持ち込むなど、「[[伏魔殿]]」といわれたWWAで数々の謀略にかかわったことでも有名である。この頃のことを来日時のインタビューで[[竹内宏介]]に質問された時、当時WWAはとっくに消滅していたにもかかわらず、「忘れた」「よく覚えていない」ととぼけ通したという。竹内は後にこのことについて「こうした口の堅さも彼が名レフェリーとうたわれた一因だったのだろう」と語っている。
 
2001年3月26日、[[パーキンソン病]]により89歳で死去。