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'''クライド・パングボーン'''(Clyde Edward Pangborn :[[1896年]][[10月28日]]-[[1958年]]5月)はアメリカのパイロットで、初の太平洋無着陸横断飛行の成功者。
 
[[アイダホ大学]]を卒業後鉱山会社の技師をしていたがアメリカが第1次大戦に参戦すると、軍でパイロットの教育をうけ、教官になった。除隊後「バーン・ストーマー」になった。1920年代になって自分の会社を設立したが、大恐慌によりすぐに破綻した。
 
1931年金持ちのパイロット、ヒュー・ハーンドンと、ハーンドンの母親の資金で世界一周の速度記録(当時[[ツェペリン]]号の20日と4時間)を破るためにベランカ・スカイロケットの改造して準備したが、出発前に[[ウィリー・ポスト]]らがロッキード単葉機で、従来の記録を大幅にちぢめる8日と15時間15分の記録をうちたてた。パングボーンらは、速度に劣るベランカ機で着陸回数を減らして、記録更新を狙った。
 
7月28日ニューヨークを出発した。大西洋を横断してシベリアに到着するころには、天候にめぐまれないなどで、ポストらの記録に27時間遅れ、記録更新は絶望的になった。そのため世界一周記録をあきらめ、[[朝日新聞]]が初の太平洋無着陸飛行にかけていた賞金$25,000を狙うことに計画を変更した。
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さらに航続距離を伸ばすために、車輪は離陸後きり離して、胴体着陸するようにする改造をほどこして[[1931年]][[10月4日]]、[[淋代海岸]]を離陸し飛行時間41時間13分で、アメリカの[[ワシントン州]]ウェナッチ市までの飛行に成功した。
 
横断に成功したがパングボーンは経済的な利益をえることはできなかった。1934年に[[ロスコー・ターナー]]と組んで、[[マックロバートソン・エアレース]](イギリス-メルボルン間長距離レース)で3位になるなどしたが、その後はテスト・パイロットなどをした。50年以上のパイロットのキャリアで大きい事故をおこさなかったパイロットである。
 
[[Category:パイロット|はんくほ くらいと]]
{{生没年|はんくほおん くらいと|1896年|1958年}}
 
 
[[en:Clyde Pangborn]]