「アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン」の版間の差分

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'''アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン'''(Albert Kasimir von Sachsen-Teschen, [[1738年]][[7月11日]] - [[1822年]][[2月10日]])は、[[ドイツ]]・[[オーストリア]]の美術品の収集家、保護者。[[ウィーン]]の美術館アルベルティーナの創始者として知られる。また、[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]の総督も務めた(1780年 - 1793年)。全名はアルベルト・カジミール・アウグスト・イグナツ・ピウス・フランツ・クサーヴァー(Albert Kasimir August Ignaz Pius Franz Xaver)。
 
父は[[ポーランド王国|ポーランド]]王(兼[[ザクセン選帝侯]])[[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]、母は[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]]で、2人の間の六男として生まれる。何人もの兄がいて家督の相続は望めない身分だったが、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の「女帝」[[マリア・テレジア]]の娘[[マリア・クリスティーネ (テシェン公妃)|マリア・クリスティーネ]]と恋仲になり、結婚を許された。マリア・クリスティーネが女帝のお気に入りの娘であったことから、莫大な持参金とテシェン公領を得た上に、[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン|カール・アレクサンダー]]公子(女帝の夫、皇帝[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]皇帝の弟)の死後に[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]を夫婦で統治する取り決めもなされた。
 
子がなかったため、妻の兄・皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]皇帝の三男[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール]]を養子とし、ネーデルラント総督職とテシェン公領を継がせた。
 
{{先代次代|[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント総督]]|1780 - 1793|[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]|[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|テシェン公カール]]}}