「野茂英雄」の版間の差分

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フロントは野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、野茂をトレードや自由契約ではなく任意引退として扱おうとした(自由契約にならない限り他球団でのプレーは出来ない)。これは野茂がメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となる。
==== 監督との確執 ====
もう1つの理由は監督である[[鈴木啓示]]との確執だった。野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督・[[仰木彬]]はこれを快諾し、調整方法も野茂に任せため、野茂は仰木を信頼するようになった。これに関して後に野茂は後日、メジャー在籍時の晩年に、「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが近鉄監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。
 
さらに、1993年に監督に就任した鈴木はフォーム<ref>鈴木は就任直後、[[道上洋三]]のラジオ番組に出演し、「今のフォームではいずれ通用しなくなる。そのときに私に頭を下げてこられるかどうかだ」と述べ、完全に野茂のフォームを否定していた。しかしメジャー移籍後の野茂の飛躍により、指導者としての評価を著しく下げてしまう結果となった。</ref>や調整法など様々なことに関して野茂に干渉した。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木は[[オープン戦]]から結果を要求していた。
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* プロ初奪三振は初登板・初先発の[[1990年]][[4月10日]]対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦([[藤井寺球場|藤井寺]])。1回表、4番・[[清原和博]]から。1番・[[辻発彦]]が四球、2番・[[平野謙 (野球)|平野謙]]のバント処理を誤り一・二塁、3番・[[秋山幸二]]も四球で無死満塁の大ピンチだった。
* 1991年の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]で、全パの[[秋山幸二]]が自打球により負傷退場し、他に野手が残っていなかったため、代打で出場したことがある。結果は見逃し三振だった(既に秋山が2ストライクを取られていたために記録上は秋山の三振である)。この時、[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]のヘルメットをかぶって打席に立った。
* 近鉄時代に、同期入団の[[石井浩郎]]や、[[金村義明]]以外の野手とは基本的に仲が良くなかったと言われる。フォームが通常とは違うため守備側もタイミングが取りづらいこと、コントロールが悪く球数が多いために守っている時間が長く、四球を連発する野茂に野手が反感を持っていたためだとされる{{要出典|date=2008年9月}}。実際、野茂がランナーを出した際に、間合いを取ったり、アドバイスを送ろうとマウンドに駆け寄る者は捕手以外では石井浩郎しかおらず、スタンドのファンから見ても野茂はチーム内で孤立していた。また、金村も現役時代、三塁の守備についてて野茂に四球を連発された際「こんなにフォアボールが多くては・・・守っている人間のことも考えてくれないと・・」と苦言を評したこともある。
* ドジャース入団1年目に大リーグの伝統「新人への洗礼」を受けている。チームメイトが新人歓迎の意味でちょっとした悪戯を仕掛けるものだが、野茂も夏場ロッカーにしまったスーツを毛皮の服にすり替えられたり(結局その格好で移動の飛行機に乗った)、シカゴにある[[南北戦争]]の英雄[[ロバート・E・リー|リー]]将軍の銅像の馬の急所に、先輩選手に誘われチームカラーの青のペンキを塗りに行き、後日警察に検挙されそうになったり(実はこれもチームメイトが仕組んだ)、少々手荒い、しかし温かい歓迎を受けた。野茂は後に「あれでチームの一員になったと実感した」と語っている。
* 古巣近鉄が[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]と対戦した[[2001年の日本シリーズ]]第5戦の中継でゲストとして出演したが、たびたび配球を読み当てるなど的確な発言で「さすが野茂」と見る者を唸らせた。実況に「野茂さんから見て[[タフィ・ローズ|ローズ]]選手や[[中村紀洋]]選手の2001年版いてまえ打線の印象はどうですか?」と聞かれ、「僕がいた時は[[ラルフ・ブライアント|ブライアント]]や[[石井浩郎|石井]]さん、[[鈴木貴久|鈴木]]さん、[[金村義明|金村]]さんがいましたけど、あの時と、まぁメンバーはもう全然変わってますけど、構成も似てますし、近鉄は変わってないですね」と笑ってコメントした。