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'''ジュゼッペ1世・ディ・ボルボーネ・パルマ'''(Giuseppe I di Borbone-Parma, [[1875年]][[6月30日]] - [[1950年]][[1月7日]])は、[[ブルボン家|ブルボン=パルマ家]]の家長および名目上の[[パルマ公の一覧|パルマ公]]([[1939年]] - 1950年)。最後のパルマ公[[ロベルト1世 (パルマ公)|ロベルト1世]]が廃位後に最初の妻マリア・ピア([[両シチリア王国|両シチリア王]][[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]の娘)との間にもうけた12人の子のうち第6子、三男であるが、長男は誕生後間もなく夭逝しており実質的には次男である。全名はGiuseppe Maria Pietro Paolo Francesco Roberto Tomaso-d'Aquino Andreas-Avellino Biagio Mauro Carlo Stanislao Luigi Filippo Neri Leone Bernardo Antonio Ferdinando。
 
[[1939年]]、兄[[エンリコ・ディ・ボルボーネ=パルマ|エンリコ]]の死によりブルボン=パルマ家の家長、および名目上のパルマ公ジュゼッペ1世となった。しかし、兄と同様にジュゼッペも[[知的障害]]であったため、弟[[エリアス・ディ・ボルボーネパルマ|エリアス]]が引き続き[[摂政]]として事実上の家長の役割を果たした。兄と同様に独身で子がいないため、[[1950年]]にジュゼッペが死去した後はエリアスが跡を継いだ。
 
{{先代次代|[[パルマ公の一覧|ブルボン=パルマ家家長]]|1939 - 1950|[[エンリコ・ディ・ボルボーネ=パルマ|エンリコ]]|[[エリアス・ディ・ボルボーネパルマ|エリアス]]}}
 
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