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[[袁煕]]〔従兄弟〕 [[袁尚]]〔従兄弟〕
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袁紹配下。上記のように、袁紹と血縁にあったことから重用された。しかし、『三国志』魏書高柔伝注に引く[[謝承初平]]『後漢書』2年([[191年]])、袁紹の命によれば高幹は才能[[荀シン|荀諶]]・[[郭図]]ら野心あふれ、文武に優れた人物だった使者されおり冀州牧[[韓馥]]の下に赴き冀州を袁紹縁故のみで成り上がっ譲らせ人物ではないことがうかがえようその一方で、魏の文人[[仲長統建安 (漢)|建安]]4年([[199年]])頃よれば自信過剰な面袁紹から[[并州]]刺史(牧とする記事もあったとる)に任命され、袁紹ことである[[袁譚]]・[[袁煕]]と同様に一州の統治を委ねられる破格の待遇を受けている。
 
[[初平]]2年([[191年]])、袁紹の命により、[[荀シン|荀諶]]・[[郭図]]らと共に使者として冀州牧[[韓馥]]の下に赴き、冀州を袁紹に譲らせた。[[建安 (漢)|建安]]4年([[199年]])頃には、袁紹から[[并州]]刺史(牧とする記事もある)に任命され、袁紹の子である[[袁譚]]・[[袁煕]]と同様に一州の統治を委ねられる破格の待遇を受けている。
=== 関西進攻 ===
建安7年([[202年]])に袁紹が死去し、同年に[[曹操]]が[[袁譚]]・[[袁尚]]兄弟を攻撃すると、袁尚は高幹と河東[[太守]][[郭援]]に命令して関西方面へ進攻させた。高幹・郭援は、密かに西涼の[[馬騰]]や[[韓遂]]と結び、[[匈奴]]単于[[呼廚泉]]と共に合流し、その軍勢を数万にまで膨れ上がらせた。
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『三国志』魏書荀彧伝によれば、高幹の最終目的は鄴の襲撃だったようである。だが、関西方面で活動していた曹操配下の鍾繇、張既、[[杜畿]]らは、やはり巧みな政略を駆使して高幹を撃破し、また、鄴を守る[[荀衍]]や、別働隊の[[楽進]]・[[李典]]にも攻撃され、高幹はここでも劣勢に追い込まれる。翌建安11年([[206年]])に曹操が自ら大軍を率いて攻めて来ると、高幹は呼廚泉を頼ったが、今度は呼廚泉は援軍を送らなかった。追い詰められた高幹は[[荊|荊州]]の[[劉表]]を頼って落ち延びようとしたが、その途中で上洛都尉王琰に殺害され、首級を曹操に献上された。
=== 評価人物像 ===
高幹は袁紹の甥ではあったが、『三国志』魏書高柔伝注に引く[[謝承]]『後漢書』によれば、高幹は才能と野心にあふれ、文武に優れた人物だったとされており、単に縁故のみで成り上がった人物ではないことがうかがえよう。その一方で、魏の文人[[仲長統]]によれば、自信過剰な面もあったとのことである。高幹は、2度も曹操陣営の背後を衝いて危機に陥れており、しかも、建安7年の関西進攻でも、建安10年の上党での反逆でも、事前の準備は周到で、確かに文武兼備の人材であったことをうかがわせる。曹操にとっては、正面の袁氏兄弟よりも、むしろ後方を執拗に撹乱する高幹の方が恐ろしい敵だったかも知れない。しかし、曹操の後方に控えていた人材層も相応に厚く、高幹の野心の実現は阻まれた。
 
== 物語中の高幹 ==
『[[三国志演義]]』の高幹は、正史での派手な活躍に比べると、かなり地味な存在でしかない。史実のように関西を衝いたり、一時降伏して再び叛旗を翻したりといった過程が、完全に欠落しているためである。上党で曹操軍相手に懸命に防戦したが、曹操に寝返った[[呂曠]]と[[呂翔]]の偽降にかかって敗北し、最期は史実通りとなっている。なお、呂曠と呂翔は、史実においては高幹と何の接点もない。