「津々見忠季」の版間の差分

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[[遠敷郡]]津々見保の[[地頭職]]に補任されたことから、最初、津々見忠季と名乗る。[[建久]]7年([[1196年]])9月1日、源頼朝は若狭の最有力[[在庁官人]]であった[[稲庭時定]]より没収した遠敷・[[三方郡|三方]]両郡の所領25か所を忠季に与えた。忠季はここで若狭守護となったと考えられる(「守護職次第」)。これ以後、忠季が若狭という国名を苗字としたのは、若狭国の中心に立つこととなった自らの立場に対する自覚によるものであろう。
 
[[正治]]元年([[1199年]])には[[梶原景時]]を弾劾する連判状に名を連ねた。[[建仁]]3年([[1203年]])[[比企能員の変]]に連座して所職を没収される。承久2年([[1220年]])、若狭国守護職に復す。翌年、[[承久の乱]]が起こると鎌倉方に属し活躍したが、6月14日[[淀川|宇治川]]における合戦の際、急流のため渡河に失敗して死去。戦後、甥の[[島津忠時]]が若狭国守護職を継いだ。子孫は、三方郡に本拠地を構えたことから三方氏を名乗り、室町初期に若狭守護であった一色氏の被官となった。一色氏が若狭守護を解任されると三方氏も一色氏に付き従い、南山城に本拠地を移し、諸城の城主をつとめたりした。
 
 『税所次第』、『守護職次第』から、若狭島津氏の4代までの事跡が伺える。