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[[1919年]]に鳥居の勧めで東京帝国大学理学部人類学研究室予科に進学。この時、「[[旧制高等学校]]から大学に進学する」という当時の常道<ref>佐原真「山内清男論」</ref>から外れた進学をしたため、家族、特に父との関係は悪くなっていった。予科では、[[形質人類学]]に興味を持ち、[[東京人類学会]]に入会している。[[1921年]]に鳥居が主導して行なわれた堀之内貝塚の発掘調査や、一年後輩の[[八幡一郎]]と行なった[[上本郷貝塚]]の調査を行い、縄文土器研究の第一歩を踏む。[[1922年]]、人類学選科を終了し人間の[[遺伝]]について専攻することを決意し、東京帝国大学人類学研究室と自宅を往復しつつ、人類学と先史学を研究。同年、初の研究論文である「[[諏訪郡]]住民の人類学I―大正十一年度諏訪郡壮丁の人類学的研究」を発表した。その後、再び上本郷貝塚を調査した後、志願して1年間入営するが、大半を[[国立病院機構|衛戍病院]]で過ごして除隊されている。
 
=== [[社会主義]]と山内 ===
山内は帝大人類学教室にいた[[1920年]]代前半に、[[社会主義]]運動にも参加している。[[1920年]]から[[1924年]]にかけて回覧雑誌『鐘』を発行して社会主義研究をしているほか、第1回と第2回の[[メーデー]]にも参加している。また、[[大杉栄]]の北風会の会合にも参加していたが、これらの活動が当局に目をつけられることになり<ref>1921年の田中の日記には''山内のところへは刑事が来た相だ。カービンスキー''(=山内)''だけに人一倍あわててゐるだらう。''とある。</ref>、鹿児島の曽祖母の下への逃亡や[[鍾乳洞]]への逃亡を経験している<ref>佐原真「山内清男論」</ref>。いずれにしても、これらの経験は山内に権力や権威に対する反逆心を与え、その後の研究にも大きな影響を与えることになった<ref>伊藤信雄「山内博士東北縄文土器編年の成立過程」・佐藤達夫「学史上における山内清男の業績」</ref>。
 
=== [[東北大学|東北帝国大学]]医学部と先史考古学会 ===
[[1924年]]、[[東北大学|東北帝国大学]]医学部解剖学研究室副手になったが、東北帝国大学教授の[[長谷部言人]]と対立し、実際に勤務するのは翌年まで延びる。これは、長谷部が遺伝学の意義を認めていなかったためで、そのことが[[権威主義]]に反発する山内の真情を害したためだと考えられている<ref>伊藤信雄「山内博士東北縄文土器編年の成立過程」</ref>。同年、八幡と共に小川貝塚を調査したが、同じ頃に[[モンテニウス]]の『考古学研究法』の原著を読み[[地層累重の法則]]を知ったほか、[[松本彦七郎]]の層位学的研究法に興味を持ち、この時の調査で層位研究による編年に自信を持ったとされている。
 
その後、毎年のように[[東北地方]]各地の[[貝塚]]を[[発掘調査]]し、縄文土器資料や層位による新旧の情報を蓄積していった。[[1932年]]から[[1933年]]には、その結果を「日本遠古之文化」として雑誌『ドルメン』誌上に発表したが、1933年に東北帝国大学医学部を退職して上京。一時期、「[[パピルス]]書院」なる[[原稿用紙]]店を経営して、日本で最初の横書き原稿用紙<ref>佐原真「山内清男論」</ref>を製造・販売していたが、すぐに閉鎖して、以降どの研究機関にも属さない研究生活を送ることになる。同年、原始文化研究会を創立して、月例会を主催するようになる。この頃になると、山内や八幡、そして[[甲野勇]]ら鳥居の弟子達による編年による年代決定は、特に[[大山柏]]が主催する史前学研究所などで大勢を占めるようになっていたが、記紀の記述に基づいた常識による「常識考古学」を主張していた[[喜田貞吉]]との間に対立が生じて、その衝突は[[1936年]]の[[ミネルヴァ論争]]で最高潮を迎えることになる。
さらに山内は、全国の考古学者による発掘調査で全国の土器編年をより確実なものにするために、土器の[[写真]]を公表することで基準となる土器を統一させることを考え、[[1932年]]から『日本先史土器図譜 第一部・関東地方』の刊行を開始した。第一部の刊行を1年で完了した山内は、続いて『第二部・東北地方』の刊行準備を進めたが、準備中に印刷所が企業整理・鉄材回収で閉鎖され、さらに[[仙台]]に疎開している間に[[1945年]]の[[東京大空襲]]で東京の自宅、さらに写真乾板(大半が未発表)を預けていた友人宅、土器を保管していた[[芹沢長介]]宅・史前学研究所が全焼してしまい以降の刊行は不可能になってしまった。
 
=== 縄文原体研究と[[放射性炭素年代測定|炭素14年代測定法]]の批判 ===
[[1946年]]、[[満州]]で調査中に終戦を迎え、抑留されてしまった八幡に代わり、東京大学理学部人類学教室非常勤講師になり、翌年には委託講師となった。戦後になって、山内は戦前から暖めていた縄文原体の研究をまとめ始めた。そして、[[1962年]]に縄文原体の研究は日本先史時代の縄紋」としてまとめられ、この論文により山内は[[京都大学]]より文学博士の学位を授与され、同日、東大を定年退職。[[成城大学]]文芸学部教授に就任した。
 
一方で、山内は縄文時代の始まりについて、ヨーロッパの土器年代や石器の年代から約3000年前としていた<ref>甲野・江上・後藤・山内・八幡 「座談会 日本石器時代文化の源流と下限を語る」</ref>が、戦後になって[[夏島貝塚]]の縄文時代早期の層の[[放射性炭素年代測定|炭素14年代]]が約9500年前という結果になった<ref>芹沢長介「日本最古の文化と縄文土器の起源」 『科学』1959年8月号</ref>。これに反発した山内は「縄文草創期の諸問題」のなかで型式が増加しすぎた縄文時代早期を縄文時代草創期と縄文時代早期に分けた上で、草創期の年代を約4500年前と主張し、炭素14年代測定法を「脚短名年代の[[インフレーション]]」「アメリカ[[帝国主義]]」「[[八紘一宇]]思想」(「画竜点晴の弁」より)などと批判した。しかし、山内が反論に用いた大陸の遺物の年代が不明瞭であり、また山内の石器の認定法に問題があったため、支持されることなく、芹沢らの炭素14年代測定法による年代測定が主流となっていった。
 
[[1970年]][[8月29日]]、[[糖尿病]]に伴う肺炎で逝去。68歳の生涯を閉じた。
 
 
== 功績 ==
型式編年と並んで山内の偉大な業績のひとつに上げられるのが、「縄文原体]を解明したことである。縄文原体とは、縄文土器に施文され、名称の由来にもなった「コード・マーク」のことである。それまでの研究者の説<ref>例えば、[[中山平次郎]]「貝塚土器の席紋と其類似紋」「貝塚土器の縄紋と古瓦の縄紋」や杉山壽榮男 『日本原始工芸史 原始篇』</ref>では、筵を押し付けたとか縄を押し付けたなど様々な説があったが、いずれも観察による推測にとどまっていた。山内は紙縒りで様々な縒り方の紐を作り、それを実際に[[粘土]]の上で転がしたり押し付けたりすることによって多くのバリエーションの「縄紋」が発生することを解明した。
 
=== [[弥生文化]]における農耕の解明 ===
当時は[[クリスチャン・トムセン|トムセン]]の三時代区分法によって、原始時代は石器時代・[[青銅器時代]]・[[鉄器時代]]に分類されており、農耕が始まったのは青銅器時代からであり、石器時代に農耕が行なわれていなかったというのが定説であった。山内は、東北地方の土器を収集する過程で、縄文土器の特徴を持つ弥生式土器の底部に[[籾]]の痕が残っているのを発見し、[[1925年]]に「石器時代にも稲あり」として発表した<ref>のちに山内は『先史考古学論文集』で、この論文を書いたのは長谷部であるとした上で、改めて自分の書いた当初の論文である「石器時代土器底面に於ける稲籾の圧痕」を附論として発表している。</ref>。[[1934年]]には「稲の刈り方」を発表して、中国での[[ユハン・アンデショーン|アンダーソン]]の農耕具研究を参考に、当時から[[イヌイット]]の肉切包丁に類似することから[[石包丁]]と呼ばれていた石器に、[[鎌]]としての可能性を指摘して、その際にどのような使用法が考えられるかを提示した。さらに、[[1936年]]には「磨製石刃石斧の意義」を発表し、弥生式土器に伴う磨製石斧が[[斧]]ではなく、土堀具ではないかと指摘した上で、[[弥生文化]]における農耕は道具と共に伝播したものだと主張した。翌[[1937年]]、山内は「日本に於ける農耕の起源」を発表して、縄文土器に伴う打製石斧や弥生土器に伴う磨製石斧は[[鍬]]とする一方で、弥生時代における農耕は縄文時代における女性の採集活動の延長に過ぎず、その規模は[[アイヌ]]や[[台湾原住民]]におけるHackbau程度であり、[[灌漑]]が伴う本格的な農耕が始まるのは[[古墳時代]]以降だと主張した<ref>この主張は後に[[唐古・鍵遺跡]]や[[登呂遺跡]]・[[板付遺跡]]の発掘調査で否定されたが、戦後は縄文時代開始年代に傾注した山内は特に何も述べていない。</ref>。これは、当時[[森本六爾]]が山内に影響されて自らの主催する雑誌『考古学』上で農耕特集を連発し、弥生文化にも農耕があったと主張する中で、山内のプライオリティーを無視していたからだとも言われている<ref>田村晃一「山内清男論」・佐藤達夫「学史上における山内清男の業績」、もっとも山内の研究が主に農耕具の使用法についてであったのに対し、森本の研究は農耕具(特に石包丁)の分布が中心であったという違いがある。</ref>。
 
=== 縄文時代開始年代の解明 ===
山内は縄文時代の始まりについて、従来から縄文時代の年代を一つの「期」を50年として、50X6=300年として、弥生時代の始まりを[[紀元前700年]]頃とした上で、縄文時代の始まりを約3000年前としていた。その後、「矢柄研磨器について」の中で、欧州やシベリア、北朝鮮から出土した矢柄研磨器<ref>[[砥石]]の一種で、断面が半円形をしており水平面に溝を有する。山内は、こうした砥石が2個ずつ出土する点や、射手の墓場に副葬されている点、[[インディアン]]などの民族例から、溝に[[矢]]の柄を挟み、研磨してまっすぐにする道具だと考えた。画像は関連リンク「矢柄研磨器と有溝砥石の関係」を参照。</ref>の年代を紀元前2500年前から紀元前1500年前とした上で、こうした矢柄研磨器が日本各地の縄文時代草創期から早期の遺跡から出土することから、縄文時代の始まりを紀元前2500年前に修正し、そうすると縄文時代早期後半から前期前半の[[縄文海進]]がリトリナ海進に一致することを主張した。
 
その後、芹沢長介は山内の反論について、シベリアではイサコヴォ期([[沖積世]]初頭から[[新石器時代]]初頭)までの約4000年の資料が少なく不明瞭であり、中国でも周口店上洞文化から[[彩文文化]]までの研究が未発達であることを指摘して、大陸の矢柄研磨器の年代が縄文時代の年代決定の根拠にならない<ref>芹沢長介「旧石器時代の終末と土器の発生」</ref>と批判した。また、山内が「矢柄研磨器」とした溝のある砥石についても、その後の研究の進展で1万年前に及ぶものがあることが指摘され<ref>加藤晋平「北東アジアの単条有溝砥石について」</ref>、また日本においても矢柄研磨器が旧石器時代から弥生時代に広く存在し、しかも山内が「矢柄研磨器」とした砥石の大半が2個一組で出土したわけではなく、水平面に溝があるだけで矢柄研磨器とみなしていることを批判する論考も見られる<ref>宮下健司「有溝砥石」</ref>
 
=== 「サケマス論」の提唱 ===
サケ・マス論は、山内が提唱した縄文時代の生業の一形態である。山内は、アメリカの[[カリフォルニア]]沿岸のインディアンに、[[ドングリ]]と[[マス]]を貯蔵して生活する集団がいることに注目し、[[1947年]]頃から<ref>この主張が明文化されたのはかなり後のことで、[[1964年]]の「日本先史時代概説」になってからのことである。それまでは口頭による主張であった。</ref>、東日本と西日本の[[サケ]]・マス類の漁獲量の違いを根拠に、西日本においてはドングリによる生業しか成り立たず、一方の東日本にはドングリに加えてサケ・マスを漁獲して保存することができたために、食料に余裕が発生したと主張して、東日本の縄文時代の遺跡が西日本よりも格段に多い理由をサケ・マス論に求めた。その根拠として、近世までアイヌが河川でのサケ漁を行なっていたことを挙げ、また貝塚からのサケ骨の出土量が少ないのは、骨ごと粉末にする保存法があったからだとした。
 
* ''「石包丁の意義」'' 『ドルメン』第3巻第11号 岡書院 1934年
* ''「日本に於ける農業の起源」'' 『歴史公論』第6巻第1号 雄山閣 1937年
 
 
== 脚注 ==
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<references/>
 
== 参考文献 ==
{{Japanese-history-stub}}
 
{{DEFAULTSORT:やまのうち すかお}}
[[Category:縄文時代|やまのうちすかお]]
[[Category:日本の考古学者|やまのうちすかお]]
[[Category:1902年生|やまのうちすかお]]
[[Category:1970年没|やまのうちすかお]]
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