「国分胤親」の版間の差分

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'''国分 胤親'''(こくぶん たねちか、[[正中 (日本)|正中]]3年/[[嘉暦]]元年([[1326年]]) - [[文和]]4年/[[正平 (日本)|正平]]10年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[1355年]][[5月4日]])?)は、日本の[[室町時代]]に[[陸奥国]][[宮城郡]]にいた武士である。[[1335年]]に[[結城氏]]から[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]に養子に入り、[[1355年]]に黒川で戦死したというが、実在しない可能性もある。
 
[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末まで宮城郡南部を領した一族である。胤親の名は、江戸時代に[[佐久間義和]]が編纂した「平姓国分氏系図」にのみ現れる<ref>佐久間編の系図は、1950年刊『仙台市史』第3巻別編1の232-246頁に主要部の引用がある。</ref>。[[結城親光]]の二男で、[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])4月に[[国分胤輔]]の養子になった。郷六高政の女を妻とし、三人の子を儲けた。9で死んだ鶴若丸、相沢通俊の妻になった女、国分氏を継いだ[[国分胤経|胤経]]である。文和4年([[1355年]])3月22日に[[黒川郡]]で流れ矢に当たって戦死した。このとき年30というので、逆算すると生年は正中3年、あるいは改元して嘉暦元年([[1326年]])となる。
 
ただし、胤親の名は他の史料に見えず、佐久間編の系図は江戸時代に比較的近い時代でも必ずしも信が置けないので、どれだけ事実を伝えるものかは不明である。